「長い間ご苦労さまでした」「寂しくなるけど元気でね」ー。2022年、近所の人と一緒に体を温めながらよもやま話をすることができた地域の憩いの場、銭湯は、最盛期のおよそ10分の1にまで減少した。ロシアのウクライナ侵攻を背景とする燃料費の高騰も、廃業の理由に挙げられているという。約70年続くのれんを下ろす決断をした老舗の「最後の1日」に密着させてもらい、銭湯の歴史と未来を考えた。(時事ドットコム編集部 谷山絹香)
消える昭和レトロ銭湯
JR小岩駅(東京都江戸川区)から歩くこと約10分、商店街から少し離れた一角に「照の湯」はあった。「ゆ」の文字と複数のだるまが描かれた青色ののれんをくぐると、「閉店のお知らせ」と記された紙が目に留まった。下足箱に靴を入れ、ガラガラと引き戸を開けて女湯の脱衣所に入る。「いらっしゃいませ」。番台に座っていた女将(おかみ)の高柳晴美さん(76)だ。
番台は男女それぞれの脱衣所が見渡せる位置にあり、利用客はここで入浴料を支払う。どこそこに新しい店ができたよー。近所のこと、街の出来事。晴美さんは「ここに座っていれば、動かなくても、お客さんが両方から情報を流してくれるの」と笑う。
照の湯が建てられたのは、1953年だ。高い天井にぶら下がる蛍光灯、頭からかぶる形式のドライヤー。何から何まで昭和レトロを感じさせる脱衣所を抜け、浴室へ向かう。女湯と男湯を隔てる壁にあった、花鳥風月をあしらったタイル絵は九谷焼だという。広くて深い浴槽に張られたお湯は、カルシウムや鉄分が多く含まれた地下水をまきで沸かしている。
釜の管理は、ご主人の保さん(81)の仕事だ。保さんは中学卒業後、石川県から上京。親戚が営む銭湯で働き、1982年、住み込みで経営してくれる人を探していた照の湯を引き継いだ。「多いときには洗い場がお客さんで満員。すぐに湯がぬるくなるから、ずっとまきを入れて燃やしておかなければならなかった」と当時を振り返る。
以来40年。営業は午後3時開始だが、保さんは午前10時には廃材をまきにして湯を沸かしてきた。湯温は高めの42度。翌日午前0時までの営業時間中、温度が下がらないよう、40~50分おきに追加のまきをくべる。「体力的にもしんどいし、年齢が理由で辞めるんだけどね、仕事がつらいと思ったことは今まで1回もない」。笑みを浮かべたが、3人の子どもに継いでほしいとは思わなかった。「風呂屋の時代はもう終わり。今どき週に1回も休みがないなんて、継ぎたくもないでしょ」
最後の1日
最後の営業日となった2022年11月25日。まだ午後1時半だというのに、常連の女性3人が近くで開店を待ちわびていた。保さんが手でかき混ぜながら湯温を確かめ、晴美さんが湯船を覆っていたシートを外し、お湯で洗い場のタイルを暖める。午後2時45分、10人以上の常連客が自分たちでシャッターを開けて中に入ってきた。晴美さんによると、「15分前行動」は最終日だからではなく、「いつものこと」だ。
午後3時、「入っていいよ」という晴美さんの声を合図に洗い場が混雑し、浴室はまたたく間に湯気に包まれた。一番風呂に入った80代の女性は「ここで出会った人たちもせっかく仲良くなったのに、みんなばらばらになってしまう。やっぱり愛着があるから悲しいね」と残念そうに話す。300軒以上の銭湯を巡っているという60代男性は「昭和の雰囲気がそのまま残っているのが魅力だった。こうした銭湯がなくなるのは寂しいの一言」と惜しんだ。
50年前の10分の1
全国の銭湯の9割以上が加盟する全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会(東京都千代田区)によると、連合会設立時の1958年の組合員数は9698軒で、10年後には1万7999軒まで増えた。だが、その後は減少の一途。1991年に1万軒を下回り、2022年には最盛期のおよそ10分の1(1865軒)まで減った。
同連合会の宇野新一事務局長によると、①風呂が家にある家庭が増えた②戦後ほどなく建てられた銭湯が多く、設備の老朽化が進んだ③経営者の高齢化と継ぎ手不足ーの三つが影響している。この1年は、ロシアによるウクライナ侵攻をきっかけに重油やガスが値上がりし、廃業を決断する経営者が増えたという。
街の銭湯は、都道府県によって料金の上限が定められている。自宅に風呂がない人たちなどの衛生を守るという観点からで、燃料費が上がったとしても、経営者が自由に価格を見直すことはできない。「燃料費が5割増しになったところもあると聞く。お店を開けるたびにマイナスになってしまえば、地元のためにと思っている店主も心が折れてしまう」と宇野事務局長。「この状態が続けば、さらに廃業が増えるのではないか」と語る。
「銭湯消さない」継ぐ若者
先が見通せない銭湯だが、「日本から銭湯を消さない」をモットーに立ち上がった若者もいる。「サウナの梅湯」(京都市下京区)など国内で5軒の銭湯を運営する「ゆとなみ社」(同)代表、湊三次郎さん(32)は、2015年から各地で廃業寸前の銭湯の経営を引き継ぎ、再生する取り組みを続けている。
きっかけは、大学に進んで入居した下宿近くの銭湯のお世話になったこと。在学中に全国300軒ほどの銭湯を巡り、「お客さん同士が顔見知りで会話をしていたり、店主の人と話していたりする『ローカル感』に魅力を感じた」という。卒業後、アパレル会社に就職したが、かつてアルバイトしていた梅湯が経営難で廃業することを知り、「どんどん閉まっていく銭湯の世界に、何とか一石を投じたい」と、継承を決意した。
引き継いだ梅湯は老朽化が進み、毎月20万円ほどの赤字を抱えていた。少しでも経費を抑えようと、人件費を切り詰め、燃料を重油から廃材に変えたが、立て直しはそう簡単ではない。休みもほとんどなく、「最初の1、2年は辞めることばかり考えていた」という湊さん。宣伝SNSに力を入れ、新たなサービスとして朝風呂を開始すると、徐々に客足が回復し、引き継いで3年ほどたったころ、スタッフを雇って安定的に経営できるまでになったという。
湊さんはその後も、滋賀県や大阪府、愛知県で廃業寸前の銭湯を立て直していく。店舗ごとに、アーティストを呼ぶ音楽イベントや、パクチー風呂などの変わり湯を企画したり、オリジナルTシャツを販売したり。経営を軌道に乗せ、再びゆとなみ社から独立する銭湯も出てきている。今では「銭湯活動家」を名乗っている湊さん。「銭湯の経営に興味を持つ人が増えているにもかかわらず、辞めていく経営者とのマッチングがうまくいっていない」と現状を分析し、「どうにかして『銭湯はまだまだやれる』ということを知ってもらいたい」と話す。
災害時の「ネットワーク」にも
湊さんのように銭湯を守ろうという動きは出始めているものの、衰退の流れを変えるほどではない。東京都公衆浴場対策協議会の前会長で法政大キャリアデザイン学部の梅崎修教授(労働経済学)は「銭湯文化を象徴するような『昔ながらの銭湯』が増えるとは考えにくい。親族間での承継以外の仕組みを作っていかないと、減る速度は増していく」と話す。経営を継続するには、地元の野菜を売ったり、大学生がイベントをしたり、「銭湯ファンに限らず、街づくりに関心がある人や若者が入り、事業の形を複合的にする必要がある」という。
「銭湯は地域のコミュニティーの機能も果たしている」とも指摘した梅崎教授。例として、災害時など、いざというときに、銭湯で顔見知りになった人同士の声掛けが期待できることを挙げた。「少しでも知っている人が地域に広がっていれば、危機的な状況になったとき、強いネットワークになり得る」という。「銭湯の力で、地域に親切が増えやすい仕組みを作れば、街の力が強くなり、災害からのレジリエンス(回復力)も高められる。学校や公共施設と連携することで、銭湯の新たな価値を生む。それは、銭湯経営者だけでなく、社会のためにもなる」と話した。
取材を終えて
「体だけでなく、心も温まる銭湯でした」「今までたくさんの癒やしをありがとうございました」。営業終了後、常連客ら100人以上からのお礼の言葉がつづられた色紙を受け取った晴美さんは「感謝の一言です。本当にみなさんよく来てくださり、帰るときにもご苦労さまでしたって言ってくださって、もうこんなにうれしいことはないです。本当に幸せな人生でした」とほほ笑んだ。
取材を通じ、記者は2回、照の湯で疲れを癒やした。高柳ご夫妻のあたたかさや、地域の方々とのたわいもない話の中に「日常」を感じ、元気をもらった気がする。
銭湯が地域で果たす役割は大きい。だが、少子高齢化が進む日本で、役割だけを強調して存続を望むのも酷な話だろう。でも、湊さんのような人の活躍に期待するだけでいいのだろうか。「寂しいけど、やれるまでやらせてもらったから何の悔いも無い」「お客さんにも喜んでもらえるし、そんなに悪い仕事じゃなかったよ」。お風呂であったまりながら、保さんの言葉を思い出した。