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李克強氏、変死の怪情報広まる 習主席への不満反映か【中国ウオッチ】

2023年11月08日13時00分

 急死した中国の李克強前首相について、暗殺など変死説の怪情報が広まっている。いずれも具体的根拠は全くないが、改革・開放に積極的だった李氏と対立した保守派の習近平国家主席に対する不満を反映した現象とみられる。(時事通信解説委員 西村哲也)

異例の病名公表

 中国の公式報道によると、李氏は上海で休養中の10月26日、突発的な心臓病で倒れて、翌27日未明に死去した。病死した中国指導者の訃報は通常、病名に触れず、「病気のため逝去した」と発表するため、「心臓病」と病名を明記したことは異例だった。死因に関する臆測を避けるためと思われる。

 しかし、今春まで10年間、政権ナンバー2で首相を務めた人物が習主席より2歳若い68歳で急逝した衝撃はやはり大きかった。李氏は8月にシルクロード関係の観光地として有名な敦煌(甘粛省)を訪れ、その時の元気な様子の映像や写真が9月からインターネットで出回っていただけになおさらで、習氏に批判的な在外中国人らがネット上で死因を疑問視する説を一斉に流し始めた。

 最も極端なのは、治安担当の軍隊である人民武装警察の幹部による毒殺説。この幹部は、習氏に近い軍制服組首脳と密接な関係にあるとされる。荒唐無稽な話で、習氏に疑いの目を向けさせるためのフェイクニュースとみられる。

 そのほかにも「李氏は上海で軟禁されていた」「故意に最高水準の病院へ運ばれなかった」「妻の程虹さんが検視を要求している」といったうわさが拡散。習氏に不利な話ばかりだ。

 今夏以降、外相、ロケット軍司令官、国防相ら高官が理由も不明のまま次々と粛清され、政界で不穏な空気が流れていたこともあって、李氏の死についても、さまざまなうわさが流れたとみられる。

もともとは総書記候補

 確かに李氏は習主席にとって「邪魔者」だったのかもしれない。それは、統制重視の習氏に抵抗するかのように市場経済化の改革積極論を公言し続けたからだが、そのほかに、李氏が名門・北京大で法律と経済学を学んで、若手エリート組織の共産主義青年団(共青団)出身者として昇進し、「ポスト胡錦濤」の最有力候補といわれていたという事情もある。李、胡の両氏はいずれも共青団トップ経験者である。

 李氏は中国共産党政権で唯一の「総書記になるはずだった首相」だったわけで、習氏にとっては、やりにくい相手だったことだろう。

 対照的に、かつての習氏は無派閥の地味な存在。文化大革命(1966~76年)の影響で十分な教育を受けられなかったといわれる。取りえは、父の習仲勲氏(2002年死去)が革命世代の改革派長老として人気があり、彭麗媛夫人が軍所属の大物歌手だったこと。「太子党」(高級幹部子弟)の典型として出世したものの、「習仲勲の息子」「彭麗媛の夫」として知られていただけで、総書記や首相の候補として名前が挙がったことはなかった。

 ところが、これが結果的にトップリーダーへの道を開くことになった。07年、ポスト胡錦濤人事の駆け引きで、共青団出身の総書記が2代続くことを嫌った江沢民派はダークホースだった習氏を次期総書記に推した。共青団派はこれを受け入れ、李氏は「格落ち」の次期首相が内定した。血筋の良さに加え、大派閥にとって「操りやすい」という無難な印象が習氏の勝因だったようだ。

 権力基盤が弱かった習氏は10年かけて自前の派閥をつくり上げ、厳しい反腐敗闘争や左遷人事で他派を弱体化させた。現役指導者に指図したり、圧力をかけたりする有力長老もいなくなった。OBをわざわざ謀殺する理由はないだろう。目障りな存在は「腐敗」を口実にして政治的に葬り去るのが常道だ。

現状への不満表明

 台湾メディアによると、献花などで李氏を非公式に追悼する一般市民が非常に多かったことについて、台湾国家安全局の蔡明彦局長は11月6日の立法院(国会)答弁で、民生問題を重視した李氏を懐かしみ、現状への不満を表しているとの見方を示した。

 また、中国当局者との付き合いが多い香港のジャーナリストも「李氏の元上司(習氏)が気に食わないということだ」と解説した。

 李氏について、前記のような習氏との因縁を多くの人が知っていることから、急死に対する同情論が特に強いのかもしれない。

 李氏は権力闘争で敗者となったが、その死が習氏の不人気ぶりをあぶり出したことで、最後に一矢報いた形になったのは、皮肉なことである。

(2023年11月08日掲載)

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