風船爆弾、空腹耐え作製 「完成なら勝つ」、教師信じ―95歳女性、名古屋の学校で・戦後81年

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インタビューに答える徳田百合子さん=6月19日、名古屋市守山区

インタビューに答える徳田百合子さん=6月19日、名古屋市守山区

 第2次世界大戦末期、名古屋市の女学校で秘密兵器「風船爆弾」作りに励んだ少女たちがいる。同市守山区の徳田百合子さん(95)もその一人だ。「これができれば日本は必ず勝つ」。教師の言葉を信じ、空腹と寒さに耐えながら取り組んだ。

風船爆弾、材料は伝統和紙 埼玉や高知、歴史伝承も―戦後81年

 徳田さんは1944年春、同市の椙山女子専門学校付属高等女学校(現在の椙山女学園中・高)に入学した。ただ校舎は同年に軍需工場となり、1年生の2学期以降はまともに授業を受けられなかった。

 徳田さんによると、風船爆弾作りが始まったのは同年12月ごろだ。同校では体育館に加え、ベルリン五輪(36年)で日本人女性初の金メダリストとなった前畑秀子さんが在学時に練習に励んだ室内プールなどが作業場になったとみられる。

 「これができれば勝つ」。風船爆弾作りが始まる前、教師から説明を受けた。秘密兵器のため家族を含め「絶対誰にも話してはいけない」とも言われた。徳田さんは「とにかく一生懸命やらなきゃと本気で思っていた」と振り返る。

 薄い和紙をコンニャクのりで貼り重ね、風船爆弾の気球部分の材料となる分厚く丈夫な和紙を作った。時期は真冬。紙の間に空気が入らないよう、しもやけで赤く膨らんだ手を懸命に動かした。

 別の工場で加工された和紙を球体にする作業では、10人ほどで横に並び一斉に和紙を貼り合わせた。徳田さんは端に座り、デリケートな作業を担当。「不器用な私が受け持ったから、うまくいかないんじゃないかとひやひやした」と明かす。

 作業中の44年12月7日には昭和東南海地震が発生。気象庁などによれば、学校や軍需工場を中心に計約1200人の死者・行方不明者が出たとされる。同校も「校庭全体が波打つように」揺れたが、作業は続いた。

 極寒の作業場で空腹に耐えながら作った風船爆弾の威力は「ちっとも分からなかった」が、勝利を信じ手を動かした。一方の米国は同時期、原爆開発を進めていたがそれを知ったのは戦後ずいぶんたってからだ。「何にも知らないまま過ぎていったな」。あれから81年。徳田さんは静かにつぶやいた。

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