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連載 点描・永田町

憲政53年「壊し屋」小沢氏の落日【点描・永田町】

2023年03月13日

政治ジャーナリスト・泉 宏

 「政界の壊し屋」の異名を取り、自民党を2回下野させるなど豪腕を誇った立憲民主党の小沢一郎衆院議員(80)が、政界での存在感を失いつつある。20年以上続けた「小沢政治塾」の活動休止を余儀なくされ、〝小沢王国〟と呼ばれた地元・岩手県でも支持を失ったことで、政界引退の危機に直面しているからだ。

【点描・永田町】前回は⇒萩生田氏が安倍派会長に意欲

 政治塾は小沢氏が立ち上げた旧自由党の「指導者育成」を目的に、2001年にスタート。03年の旧民主党との合併後も同氏の私塾として存続してきた。〝小沢人気〟で入塾希望者が殺到した時期もあり、卒塾生は500人以上で国会議員も輩出した。しかし新型コロナウイルス禍などでここ約3年は希望者が激減し、塾運営にも支障を来したことなどから「一時休止」を余儀なくされたという。

 小沢氏は2月19日、東京都内で開いた同塾での〝最終講義〟で、立民の現状について「エンドレスに議論し、野党の中でも結論を出すのは最後。だから他の野党からもばかにされる」と語るなど、最後まで〝小沢節〟は全開。とはいえ活動再開の見通しは立たず、「もうこれでおしまい」(周辺)との声も漏れる。

 小沢氏は、27歳だった1969(昭和44)年末の衆院選で初当選して以来、18回連続で当選。既に議員歴は53年を超え、「憲政の神様」と称される故尾崎行雄(咢堂)に迫る。「花の44年組」と呼ばれた森喜朗元首相ら初当選同期の中でも、現職は小沢氏だけとなった。

 故田中角栄元首相の秘蔵っ子として中央政界にデビューした後、「金竹小(こんちくしょう)」と恐れられた竹下登元首相、金丸信元副総裁(いずれも故人)とのトリオで、100人を大きく超える自民・経世会(現茂木派)を支配。海部俊樹、宮沢喜一両政権下では「最高権力者」の名をほしいままにした。

政権交代は「見果てぬ夢」に

 その小沢氏は経世会の権力闘争激化を受け、宮沢政権2年目の1993年6月に政治改革断行を訴えて、羽田孜元首相(故人)ら同調者と共に離党して新生党を結成。同年7月の衆院選で自民を大幅過半数割れに追い込み、野党の「8党派連立」による細川護煕政権を樹立して自民を下野させた。さらに翌94年夏の「自社さ」連立による自民政権復活後も、巨大野党・新進党の幹事長として采配を振るったが、強引な分党などで同党を崩壊させ、その頃から「政界の壊し屋」の異名が定着した。98年には自由党を結成し、翌99年1月に当時の小渕恵三政権との「自自連立」で与党に復帰した。しかし同年10月に小渕首相が公明党も連立与党に加えたことへの反発などで、連立維持を巡る2000年4月の小渕・小沢会談を決裂させ、自自公連立は崩壊。小渕首相はその際の心労で脳梗塞を発症、同年5月14日に死去した。

 ただ「政権交代」に執念を燃やす小沢氏は、民主党に合流後も「選挙の神様」として、09年8月の衆院選での「民主党300議席」を主導。2度目の非自民政権誕生でも立役者となった。

 12年末の第2次安倍晋三政権発足後、曲折を経て20年9月に「新立憲民主党」に参加したが、それまでに「小沢チルドレン」と呼ばれた〝手兵〟の多くが落選するか小沢氏とたもとを分かち、影響力が激減。しかも、岸田文雄政権発足直後の21年10月の衆院選では初めて小選挙区で敗北し、比例復活に甘んじたことで地元・岩手でも「過去の人」に。

 それでも小沢氏は、次期衆院選出馬を前提に「諦めずに政権交代に挑む」と繰り返すが、政界では「もはや見果てぬ夢」(立民幹部)との厳しい見方が広がっている。

(2023年3月13日掲載)

〔写真特集〕剛腕政治家・小沢一郎氏の軌跡

〔写真特集〕新党結成、政界再編の歴史

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