映画監督・山田洋次の原点と戦争体験 (1)
日本テレビ報道局 担当局次長 菊池正史
戦争を知る最後の世代
「戦争は良くない。機関銃で敵の兵隊を殺す、そんなことが正当化されることが決してあってはならない。そんなことは皆、分かっている。戦争はやめて、トラブルは話し合いで決めましょうという分かりやすいことが、どうして守れないのかっていう絶望がある」
こう語ったのは映画監督の山田洋次だ。今年の終戦記念日を前に、日本テレビのインタビューに応じた。山田は1931(昭和6)年生まれ。終戦時は13歳だった。戦争を知る最後の世代である。
戦争経験者の生の声を残していきたい。実際の苦しみや身体に刻み込んだ教訓を、次の時代に引き継いでいきたい。そんなわれわれの思いを山田は受け止めてくれた。
山田は現在、上映されている映画「こんにちは、母さん」のメガホンを握り、親子の愛情と、それを取り囲む下町の人情を描いた。吉永小百合が母役で主演し、その息子役を大泉洋が務めた。国民的な人気シリーズだった「男はつらいよ」をはじめ、山田は時代や世相が変わっても、変わることのない家族の姿や人間の喜怒哀楽、そして必死に、ひたむきに生活する人々にスポットライトを当て、その在り方を世に問い続けてきた。
筆者も山田作品の大ファンだ。特に「男はつらいよ」が好きで、かつてはせりふを覚えていたほどだ。仕事に疲れ果て、夜遅くに帰宅しても、必ず好きなシーンを観(み)てから床に就いた。渥美清が演じた「寅さん」の真っすぐな生き方や、美しい「マドンナ」への素直な感情表現を見ながら笑い、時に醸し出す悲しみに涙した。
我(が)を抑え、世間的な評価にびくつきながら日常を生きざるを得ない多くの人々にとって、山田作品は失いそうになる「人間らしさ」を思い出させてくれる、「ありのままでいいのだ」と語り掛けてくれるものなのではないだろうか。だからこそ、山田作品は国民的な人気を博したのだと思う。
語り継ぐ思い
山田が描き続けてきた「家族」や、その「生活」を破壊する最たるものが戦争である。山田は「母(かあ)べえ」(2008年)、「母と暮せば」(15年)でも家族の絆とともに、それを奪い去る戦争の残酷さを描いた。いずれも主演の母役は吉永だった。「母と暮せば」公開時に吉永と同作で音楽を担当した坂本龍一を交えた鼎談(ていだん)で、山田はこう語っていた。
「子どもを失ったお母さんがどんなに辛(つら)いか、悲しいか、一言で言えばそういう映画なんです。その子どもが原爆で奪われてしまった、殺されたってことです。太平洋戦争で何十万何百万というたくさんの若者が死んだでしょう? それはつまり何十万何百万のお母さんが子どもを奪われたということ。それが戦争なんです」(雑誌「SWITCH」15年12月号)
母親にとっては子どもばかりか、夫も失い、子どもにとっては親を失い、無差別の空爆で家族もろとも消えてなくなる悲劇こそが戦争である。
また山田は作家・瀬戸内寂聴との対談で、こうも言っている。
「人類は世界中の人を何十回でも殺せるような沢山(たくさん)の原子爆弾を持っていて、その製造を悲しいことに、いまだに止められないのです。原爆や戦争のことを僕たち戦争を知っている世代は、くり返し、くり返し語り継がなくてはいけないのでしょうね」(同)
今回、われわれのインタビューに応じたのも、戦争経験を語り継がなければならないという思いがあってのことだろう。
復讐の恐怖
山田は大阪府豊中市で生まれた。父親が南満州鉄道(満鉄)のエンジニアだったため、2歳のとき、家族で満州(現在の中国・東北部)に渡った。満鉄職員は当時のエリートである。両親と兄と弟の家族5人は、豊かで不自由のない生活を送っていた。
終戦は大連で迎えた。そこで生活が一変した。敗戦による恐怖、不安、そして貧困が山田家を襲ったのである。まずは「復讐(ふくしゅう)の恐怖」だったという。
「人種差別というのは、はっきりありましたね、日本人には。とっても恥ずかしい話だけどね。それが、あの時代の満州ですね」
満州国は1932年、日本の軍部主導で建国された。満州族や蒙古族などとの「五族協和」がスローガンだったが、現実は違ったという。
「知り合いのおじさんと一緒に馬車に乗って、料金の問題でもめて、いきなり御者をぴしゃりと殴っちゃうみたいな。それをしてもよかったというか、日本人は当たり前だったんですね、それが。だけど、子ども心に『ああ、かわいそう。あんなこと、しなくてもいいのに』と。決して僕たちに対して暴力的な人ではない、面白いおじさんなんだよ。それが突然、中国人に対すると、そういう威圧的な態度で臨むっていうのはね、『何か変だな。良くないな』という気持ちは子ども心にあったね」
満州国が日本の傀儡(かいらい)だったと認識される現実が、日常の生活からも垣間見えてくる。だからこそ山田は中国人からの復讐を恐れた。
「8月15日、僕たちは天皇の終戦の詔勅を聞いてね。聞いたときは分からない、何を言っているのか。言葉が難しいしね。次に入ってくる情報は、どうも本当に日本は負けたらしいと。急に怖くなったね。つまり僕たちは中国人に復讐されるんじゃないかと」
大連での良識
満州の内陸部では、侵攻して来たソ連軍や、暴徒化した中国人ら地元住民による虐殺、暴行、略奪が続いた。多くの日本人が命を落とし、その逃避行は凄惨(せいさん)を極めたケースがほとんどだ。
しかし山田の恐怖をよそに、大連は比較的安定していたという。日本の敗戦時、大連の人口は約80万人で、うち日本人は20万人強だった。敗戦直後は、日本人住民がソ連軍の侵攻に備えて窓や門に板を打ち付け、バリケードを築いて抵抗したことで、ソ連兵に暴行される事件も起きたそうだ。
ただ、ソ連の占領軍司令官コズロフ・ドミトリー・チモフェーヴィチ中将は、市民を集めて「ソヴェト軍は民族の平等を強調するものである。今後は日本の帝国主義者がおこなったような民族の差別待遇は許さない。解放された中国人市民は日本人と同等の権利をもって平和な生活を営まねばならない。そしてまた、日本人市民も中国人と同じ権利と義務をもつ市民でなければならぬ」とあいさつし、ソ連軍の暴力行為にも厳しい措置を取った(木村英亮「ソ連軍政下大連の日本人社会改革と引揚の記録」〈横浜国立大学人文紀要 第1類42号〔96年〕〉)。
また大連市政府は45年12月1日に「日本居留民に対する施政綱領」を発布し、「一般日本人民の私有家屋はみだりに横領してはいけないこと、貧困者に対しては日本居留民中で、救済や職業斡旋(あっせん)をさせること」としている(同)。
かつて山田は、こう述べている。
「私にとって衝撃的だったのは、占領された軍隊の、それも鬼のように恐ろしいと教えられたソ連の兵士や、匪賊(ひぞく)の仲間としか思っていなかった八路軍の軍人が、日本の軍人からは想像もできない広い歴史的視野をもって戦ってきたのだ、ということを知ったことだった」(朝日新聞の83年4月19日付夕刊「私の転機 京大卒の八路軍将校」)
貧困の悲しみ
大連の秩序が保たれる中、山田はソ連軍御用達の店で皿洗いやフロアの給仕など、アルバイトもできた。しかし給金はわずかばかりで、物価が高騰する中、一家は「貧困」にあえぐことになる。山田はその苦しみと悲しみをわれわれに語った。
「現金しか使えない。現金なんか、なくなっちゃう。最初は売り食いだったね。いろいろ着物とか、背広とか持っているじゃない。そういうのを中国人の金持ちやロシアのお金持っている将校たちに街頭で売るのね。地べたに並べて、手に持ったりして、少しずつ売って……。おふくろの着物一枚売って何日か食いつなぐということがあった。(中略)食料を売っている市場みたいなの、あるじゃない。中国人の店が並んでいるわけだ。そこにお米とかがあるんだけれども、どんどん物価が上がって米なんか、とても買えないわけ、高くて。粟も買えないわけ。それでコーリャン。コーリャンというのは大体、馬が食べるものだからね。コーリャンしか買えないから、買って帰って、それをグツグツ、1時間も2時間も煮て、何か真っ茶色の変な、わけの分からないご飯になっちゃうんだけど、それを食べるという生活が1年くらい続いたね」
ある日、ソ連軍から黒パンを手に入れたときのことだった。
「大騒ぎして、それを切るわけだよ。子どもたちはみんな、こうしておふくろの手元を見ている。おふくろはなるべく均等にする。それから、これはお兄ちゃんで、これがお前、これが弟でと、こう分けてくれる。すると、大きいとか小さいとかで兄弟げんかが始まるわけだ。あるとき、突然おふくろがわーっと泣き出したことがあったね。包丁を放り出してさ。一瞬、僕たちは何が起きたのか分かんなくて、ぼーっとしているんだけど、要するに悲しくなっちゃったのね。その、固いパンを巡って兄弟がけんかしている姿がね。妙に覚えているな」
引き揚げては来たけれど…
「なぜ戦争が起きたのか。なぜ止められなかったか。そんなことに考えを及ぼす余裕はなかったね。僕たち少年としては、ただただ早く引き揚げの日が来ないかなと。日本に帰れば、こんなにつらい思いはしなくて済むようになるだろうと」
山田は引き揚げを一日千秋の思いで待ちわびた。そして終戦からほぼ1年半後の47年3月、親戚宅があった山口県宇部市に一家で引き揚げることになった。しかし引き揚げて来た日本でも、食料事情は同じだった。満州のときと同じように「飢餓状態」が続いたという。
「日本がこんなに食料難で、ひどいことになっているなんて想像もできないわけよ。だから驚いたね、日本に来て。1日お米が2合何勺(しゃく)とか決まっていて、全部配給でね。お米が配給になれば、まだ良い方で、代わりに麦だとかサツマイモだとか」
終戦直後の混乱で父親に安定した収入はなく、山田はさまざまアルバイトをした。焼け跡のがれきの片付け、米軍の病院の清掃、石炭の運搬、そして闇屋だ。
「闇物資を買わないと食っていけない。とても値段も高いけど。その闇物資を運搬するアルバイトがあったわけだ。遠くまで汽車で運びに行った。これも闇の一種だけど、僕のいた山口県宇部というまちでは、海岸に小さな掘っ立て小屋みたいな工場をつくって、ちくわをつくるんだ。まともな肉じゃない。サメとかエイとか、そういう安い、質の悪い肉を使って、ちくわをつくる。サメの肉なんてアンモニアの臭いがして、とても普通は食べられない物だけど、当時はそれでも貴重だった。それで、その海岸の工場に行って、それを仕入れる。ミカン箱を持っていって。50本、60本と買って、自転車に乗ってまちのいろいろなお店に卸して歩くの。『おばさん、ちくわ要りませんか?』と言って」
「マドンナ」との出会い
ある日、そのちくわが何十本も売れ残ってしまったそうだ。家に持ち帰っても大損である。思い悩んだ末、当時の西宇部駅近くに競馬場があることを思い出し、周辺にある屋台なら売れるかもしれないと考えた。何時間も自転車をこいで、ようやくたどり着き、1軒のおでん店を見つけた。その粗末な屋台では、1人の中年女性が働いていた。
「あのー、ちくわ要りませんか」
山田は、すがる思いで声を掛けた。
「そのおばさんが俺に『あんた中学生かい?』なんて聞いて、『はい、そうです』と言うと、『中学生なのに働いているのかい?』なんて言うから、『引き揚げ者だから父親の仕事がなくて学費稼ぐために働いています』と言ったら、『みんな置いていきなさい。おばさん、引き取ってあげるから』『みんな、いいんですか?』『いいわよ』と言って、『坊や。あすからね、もし残ったら、いつでも来なさい。いつでもおばさん、引き取ってあげるよ』と言ってくれたのね」
帰り道、自転車をこぎながら、山田は涙を流した。「おばさん」の生活だって苦しかったに違いない。それにもかかわらず、生きるために必死に働く少年を思いやる心、苦しいときはお互いさまだという助け合いの心がそこにあった。
すさみ切った敗戦国の片隅で、名も知れぬ「おばさん」が優しく、温かい心の火をともしていてくれたことが、山田にはうれしかったのだ。その幸福感は生涯を貫くものだったそうだ。
「とてもうれしくてね。少年の僕は頑張って生きていれば、良いこともあるという勇気かなあ。そんなものを与えられた気がしたね。だから僕にとっては、本当の『マドンナ』みたいな人だね。あのおばさんはね」
それから時が流れ、山田は映画監督となり、貧しくとも懸命に生きる人々の姿を描き続けた。
「僕にとってのテーマは、どうしても『どうやって生きていくか』ということで、『どうやって食っていくか』ということ」
一方で、このこだわりが自らの「限界」にもなったという。
「そういうところから、もっと離れた『美』という世界についての関心を、思春期にあまり抱けなかったという悔しさはある」
これが「限界」だとすれば、それは山田の心身に残された「戦争の傷跡」なのであろう。そして、この傷の痛みは山田だけでなく、長く戦後の日本を支配することになる。次回も、山田のインタビューから見える「戦争の傷跡」を振り返る。
(敬称略)
【時事通信社「地方行政」2023年10月30日号より】
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菊池正史(きくち・まさし) 1968年生まれ。93年慶応大大学院修了、日本テレビ入社。政治部に配属され、旧社会党や自民党などを担当し、2005年首相官邸クラブキャップ、16年政治部デスク。20年10月経済部長に転じ、22年6月政治部長。23年6月から現職。著書に「安倍晋三『保守』の正体」(文芸春秋)、「『影の総理』と呼ばれた男」(講談社)など。
「戦後保守政治の裏側」シリーズはこちら。
(2023年11月14日掲載)