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「反撃能力抑止力論」という理性信仰の限界
【戦後保守政治の裏側 ㉔】

2023年09月11日

怒りなき社会の安保政策大転換(4)
日本テレビ報道局次長 菊池正史

先制攻撃にはならない

 「反撃能力の保有」を巡る国会審議は、3月1日から舞台を参院に移した。

 「敵国が日本にミサイルを撃ち込もうと着手したとする。日本はこの着手を察知して反撃し、そのミサイルを破壊したとする。日本の情報分析に間違いがあれば、完全な先制攻撃だ。たとえ、その敵国が本当に日本を狙っていたとしても『日本を攻撃するつもりはなかった。日本が先制攻撃をしてきた』と主張することは容易に想像できる。そうなれば泥沼の戦争ではないか」

 同日の参院予算委員会で野党のトップバッターとして質問に立った立憲民主党の杉尾秀哉は、このような趣旨で反撃が先制攻撃になる危険性を指摘し、敵のミサイル発射準備の、どの段階をもって着手と判断するのかをただした。これに対する首相・岸田文雄の答弁はこうだ。

 「特に第一撃を事前に察知し、その攻撃を阻止することは難しくなってきている、これは現実、事実であると思っています」

 つまり敵の第一撃を回避することはできないので、現実的には2発目以降の攻撃に対して反撃をするということだ。2発目以降への反撃ということであるならば、杉尾が懸念するような、日本の先制攻撃になる可能性は低くなる。

 一方で、日本への第一撃は避けられないということだ。すなわち第一撃で発射された敵のミサイルが、日本の領土に着弾する可能性が出てくる。それでは反撃能力を保有しても、完全な抑止力にはならないではないか。この疑問に関する岸田の答えは次の通りだ。

 「ミサイル防衛網により飛来するミサイルを防ぎつつ、我が国から有効な反撃を加える能力を保有する、この二つの能力によって、現状に比して相手の戦略的、戦術的な計算を複雑化させ、日本にミサイルを撃ち込もうとしている相手に、目的を達成することは容易ではない、攻撃はやめた方がいいと思わせる、そのような抑止効果が得られるものであると考えています。そういった点から、第一撃に対してもこうした能力は抑止効果を持つものであると認識をしております」(3月28日、参院予算委)

 日本を攻撃したら反撃が来る。それを恐れて敵国は日本を攻撃しなくなるという「抑止論」だ。岸田はこの反撃のために、米国製の巡航ミサイル「トマホーク」を400発取得することを明らかにした。しかし、これで敵国は本当に日本への攻撃を躊躇(ちゅうちょ)するのだろうか。

トマホークは抑止力か?

 既に指摘されているように、トマホークの飛行速度は音速に満たない。着弾するまでに時間がかかるし、迎撃されてしまう可能性も高い。従ってトマホークは、米軍がそう運用しているように、1度に大量に発射する「飽和攻撃」をしなければ意味がない。日本の反撃も、飽和攻撃を想定しているのだろうか。
 購入する400発をどのように使うのか。3月1日の参院予算委で立民の辻元清美が追及したのに対し、防衛相の浜田靖一は次のように述べた。

 「米国のように飽和攻撃ができるような装備も我々は今のところ持っておりませんし、スタンド・オフ・ミサイルを発射するアセットも含めて今後考えていく」

 トマホークは2026年度と27年度に分けて納入される。さらに、搭載するイージス艦の改修も進めなければならない。数少ないイージス艦にどれだけのトマホークを搭載できるのか。有効とされる飽和攻撃が可能になるまでには、かなりの時間を要するということだ。

 また日本政府は敵基地を攻撃できるよう、「12式地対艦誘導弾」の能力を向上させ、射程を大幅に伸ばした「スタンド・オフ・ミサイル」などの国産化を進め、26年度に導入する予定だ。しかし、莫大(ばくだい)な予算の裏付けとなる財源を巡る議論は遅々として進まない。実際に配備され、運用が可能になるまでの道のりは不透明なままだ。国会で安全保障をタブーなく議論することは重要だが、日本の反撃能力が実効性のある抑止力になるまでの道のりは、なかなか明らかにならなかった。

 3月6日の参院予算委で公明党の山本香苗が「相手に撃たせないためにどの程度の反撃能力を持てば十分なのか」と質問したことに対する、浜田の答弁はこうだ。

 「日米同盟の抑止力、対処力を一層向上させ、共同の意思と能力を示すことによって我が国に対する武力攻撃を抑止していきたい」

 米国の協力なくして抑止力は高まらないことを示唆した発言だ。結局は、米国の攻撃力こそが決定打になるということであろう。

 「日本がどれだけ反撃能力を持とうと、単独では高が知れている」

 これは多くの与野党議員から聞く言葉だ。中国や北朝鮮が何よりも恐れるのは米軍の反撃だろう。しかし、その反撃を米軍だけに任せるわけにはいかない。だから日本も一定の負担をしなければならないということではないか。これは戦後の日米安保体制の下で、米国でくすぶり続けている「安保ただ乗り論」を回避しなければならないという、日本政府の強迫観念でもある。

 安保を米国に依存し、防衛費を低く抑えて経済成長してきた日本への不満が、米国では時に強く噴出する。19年に米大統領のドナルド・トランプが、日米安保条約を「不公平だ」と批判したのはその典型だ。

 その片務性が「日本政府への非常に強い心理的圧迫要因となり、歴代の日本の政権はほぼ一貫して日本の役割を拡大することに腐心してきた」(元外務審議官の田中均=「安保条約60年、このままで良いのか?」〈毎日新聞サイト「政治プレミア」20年1月30日〉)理由だった。そして、その役割拡大はとうとう「反撃能力の保有」にたどり着いたのである。「矛と盾」から「矛も盾」のごまかし ここで改めて問題となるのが、日米の「盾と矛」の関係だ。

 これまでの日米安保体制では、日本は専守防衛で「盾」の役割に徹し、米国が攻撃のための「矛」になるというのが原則だった。しかし日本が反撃能力を持ち、米国と「共同の意思と能力」を発揮するのだとすれば、「矛」の役割を一部担うことになると考えるのが自然であろう。そうなれば専守防衛の原則が崩壊することになる。

 参院の審議でも、岸田はこの点を野党に追及され、次のように説明している。

 「今後は、この米国の打撃力に完全に依存するということではなくなり、反撃能力の運用についても他の個別の作戦分野と同様に日米が協力して対処していく」(3月1日、参院予算委)

 近年、米国は「統合防空ミサイル防衛(IAMD)」構想を進めており、同盟国や友好国と対空ミサイル防衛アセットを統合化・システム化し、効率的な防衛作戦を遂行しようとしている。日本がトマホークを使うとなれば、米国が持つ地形データや軍事衛星の情報を利用せざるを得ないだろう。

 そうなれば事実上、このIAMDに参加することになるのではないか。自衛隊と米軍の一体化が進み、専守防衛の原則を逸脱することになるのではないか。野党側はこの点を繰り返し追及したが、岸田の答弁はこうだ。

 「統合防空ミサイル防衛能力を強化するに当たって日米が連携すること、これは重要なことであります。しかしながら、自衛隊および米軍は各おのおの々独立した指揮系統に従って行動し、かつ自衛隊は憲法、国際法、国内法に従って行動することから、自衛隊と米軍の一体化は進むものではない」(3月1日、参院予算委)

 つまり日本の反撃は、米国の命令によってではなく、日本独自の判断で、米国の協力を得て、憲法などに従って行われるので、専守防衛を逸脱しないということなのだろう。しかし日本が「独立した指揮系統」で行動したとしても、敵国に着弾するミサイルは常識的に考えて、「矛」そのものではないのだろうか。この点について、岸田は「盾の能力の拡充」だと説明している。

 「米国の攻撃力に完全に頼るものではない。要は、この反撃能力、これはミサイル攻撃から国民を守る盾のための能力であるからして、この盾の能力を拡充していくことが求められている、これが反撃能力である」(3月6日、参院予算委)

 この「矛も盾である」というロジックこそ、専守防衛論の大きな転換だと思う。 戦後の国会答弁を振り返れば、日本政府が「専守防衛」を定義するに当たり、「矛と盾は別物」と判断していたことは間違いない。従来の「専守防衛」における「矛と盾」論と、岸田の言う「矛も盾」論は、似て非なるものと捉える人は少なくあるまい。

 「これまでの専守防衛論は、現在の厳しい安保環境に適合しない」と説明する方が、その是非は別として分かりやすいし、合理的だ。「矛と盾」を「矛も盾」に転換しておきながら、「専守防衛は守っていく、堅持していく」と繰り返すから分かりにくいし、腑(ふ)に落ちない。

 悲惨な戦争の記憶が実感として継承されていた昭和世代には、「矛は盾である」というロジックを許さなかった人も少なくなかったはずだ。「矛は盾であるはずがないし、盾であるべきではない」。そんな主張がなされ、激論が交わされたことだろう。

 しかし戦争の苦しみを実感として知らない世代では、「強さ」にだけ憧れ、この手の議論を好まない人も増えてきた。そういう人たちは、「強さ」への幻想と妄想を打ち砕く現実論を、「何でも反対」「弱腰」と批判する。

 そんな世論をいいことに、「矛も盾」は「矛と盾」と変わらないと説明するのは、意識的なら不誠実だし、そう思い込んでいるのなら国語力の問題だ。政治は言葉の意味に誠実であるべきだ。

本当のリアリズム

 そもそも岸田が説明するように、「矛も盾」になれば「抑止力」が本当に高まるのだろうか。5月に広島市で開かれた先進7カ国首脳会議(G7サミット)を現地で取材した際、ある地方自治体の幹部はこう語った。

 「持った物を使わないという抑止論は、人間の理性が前提だ。しかし人間は、そんなに理性的ではない。持った物は使ってしまうというのが人間の現実だ。抑止論の方が非現実的なのだ」

 私はこの認識に、半分の真理があると思う。理性不信に理想はないが、理性信仰はうぬぼれである。人間理性に限界があるとすれば、敵国が日本による反撃の脅威にひるむことなく、第一撃に踏み切る可能性も否定できないのだ。

 従って「怒りなき社会の安保政策大転換(1)」(3月23日号)に登場した、元内閣官房副長官補の柳沢協二(防衛庁出身)による次の指摘が、決して的外れとは思えない。

 「反撃のミサイルを持てば抑止力が高まるという認識は全く間違いだ。中国にとって台湾の独立は、多少の損害があっても認めることはできない。そこで戦争になれば、多少の損害で引っ込むだろうといっても現実にはそうはいかない」

 その危険性があるから、岸田は反撃能力の保有に踏み切ったのだろう。しかし敵国が非理性的な「第一撃」を実行すれば、それが日本の防衛網をかいくぐって領土に着弾する可能性は十分にある。都市部なら、かなりの犠牲が出るであろう。

 多数の人命が奪われ、憎悪が渦巻き、「もっと反撃しろ」と報復を求める声が噴出する可能性がある。政府がその声に押されてさらに反撃すれば、仮に敵国のミサイル基地を正確に捉えたとしても「日本からの反撃が誤爆だった」「民間人に犠牲者が出た」などと、フェイク情報が飛び交うかもしれない。ロシアによるウクライナ侵攻を見ればよく分かる。フェイクを含めた巧緻な情報戦で日本の反撃の正当性が揺らぎ、泥沼の報復合戦となることも予想される。

 「敵基地攻撃をすれば、場合によっては全面戦争になる可能性がある、それを総理は認めてないんです。こうしたことをきちんと国民に説明するのが一国の総理大臣としての務めなんじゃないですか。国民に対して覚悟を求めているんですか」

 この杉尾の追及に対する岸田の答弁は、

 「これは、あくまでも国民の命、暮らし、幸福追求の権利、これをしっかり守るために行使するものであります。その点をしっかり強調していくことが重要であると思っています。反撃能力についても、その範囲内で行使するものであり、あくまでも国民の命や暮らしを守るための手段であるということ、この点を強調することこそ我が国の安全保障政策を理解していただく上で重要であると考えています」

 というものだった(3月1日、参院予算委)。

 これは理想論である。岸田が、抑止論という理想の均衡が崩れるかもしれないという、現実の半分に触れることはなかった。そして現実の半分を背負う「覚悟」を、国民に求めることもなかった。

 安保について、岸田は「第一の柱は外交力だが、外交には裏付けとなる防衛力が必要だ」と常々主張している。しかし裏付けは「防衛力」だけではあるまい。「経済力」もあれば「文化交流」もある。「脅威」ではなく、「連携」や「誠実さ」、あるいは「打算」や「駆け引き」の外交努力によって、何よりも「第一撃」に至らせないことが重要なはずである。

 政治のリーダーシップは、反撃を強いられてからではなく、「第一撃」以前に発揮されるべきなのだ。そのための「したたかな外交戦略」であるならば、人々がうそやごまかしを感じることはないはずである。(敬称略)

【時事通信社「地方行政」2023年8月28日号より】

◇  ◇  ◇

 菊池正史(きくち・まさし 報道局次長。1968年生まれ。93年慶応大大学院修了、日本テレビ入社。政治部に配属され、旧社会党や自民党などを担当し、2005年首相官邸クラブキャップ、16年政治部デスク。20年10月経済部長に転じ、22年6月政治部長。23年6月から現職。著書に「安倍晋三『保守』の正体」(文芸春秋)、「『影の総理』と呼ばれた男」(講談社)など。

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(2023年9月11日掲載)

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