真山仁
国家存続を賭けて、予算半減という不可能なミッションに挑んだ「オペレーションZ」。あの挫折から5年、新たな闘いが今、始まる。防衛予算倍増と財政再建――不可避かつ矛盾する2つが両立する道はあるのか? 目前の危機に立ち向かう者たちを描くリアルタイム社会派小説!
「海外追放」から5年ぶりに帰国した財務省の周防篤志は、江島元総理と再会する。財政再建に変わらぬ情熱を燃やす江島だが、日本の現状には悲観的だと洩らす。
episode0 [承前]
コロナ禍の状況下で、日本政府は、感染拡大防止と国民の生活や経済活動の支援のために、何度も補正予算を組み直した。現在、一般会計の歳出額と同額の約100兆円を支出している。
コロナ禍における緊急財政出動は、世界各国でも、額の差はあるものの、世界各国で行われている。
ところが、たとえば英国では、コロナ感染が落ち着いた2022年には、法人税などの増税や所得税の控除廃止などに舵を切って、非常事態で支出したカネを回収しようと動く。この英断を、国民は高く支持している。
増税をしたら選挙に勝てないから、不足分は国債で補うというどこかの国とは大違いだった。
「篤志が、英国から送ってくれた財務大臣の演説や政策リポートを読んだよ。我が国も、同様の手を打つべきだと私は叫んでいるが、分かってくれるのは、少数だ」
「暴論を承知で申し上げるのですが、今、財政再建を推し進めるとしたら、ミッションは別じゃないかという気がします。
僕らが取り組むのは、増税ではないでしょうか。……というより、自分たちの暮らしのために、当然の義務を果たすことを自覚してもらうことじゃないでしょうか。――国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を為すことができるのかを問うて欲しい――」
米国大統領ジョン・F・ケネディの有名な大統領就任演説の一部だ。
「名言だが、日本人には難しい発想だな」
江島ですら、そう考えてしまうのか。だが、それではダメなのだ。
「先ほどの日本人の魂が蒸発しているように思ったという感想にも通じるのですが、ナイジェリアと英国という、あまりにも差がある両国で暮らしてみて、意外な共通点に気づきました。
それは、国民が自分の足でしっかり立って生きているということです。でも、日本にはそんな印象が希薄です。文句は言う、SNSで誹謗中傷はするけど、何の行動もしない。責任は取らない――。これはまずいなと」
「日本人は、自分で生きていない、というのか……」
「僕がそう強く感じたのは、ナイジェリア駐在での体験でした」
ナイジェリアという国は不思議な国だった。
アフリカ最大の産油国で、アフリカ経済の四分の一を稼ぎ出す経済大国でありながら、言語や風習が異なる民族が250以上も存在する。また、内戦や軍事政権、腐敗、ジェノサイド、貧困などが続き、政治はまったく安定しない。
そして、人口約2000万人を抱える旧首都ラゴスでは、貧困と疫病で多くの子ども達の命の火が消えている。
「あの国で暮らしていると、普通を維持することが、どれほど大変かつ重要なのかを日々痛感させられます。それを当たり前にできている日本の政治力は、けっして三流などではないと考えを改めました。
にもかかわらず、国民は、日本より生き生きしているんです。彼らはエネルギッシュだし、どんな状態でもポジティブシンキングを忘れない」
ラゴスの超高層ビル街の隙間に無数に存在するスラム街で、逞しく生きている人々の姿を思い出した。彼らは貧困を嘆きながらも、絶対に諦めない。
「あの国は、自分で生きようとしなければ、その先に待ち受けているのは、死です。行政は、何もしてくれません。いや、政府に貧民なんて見えない存在なのかも知れません。だから、必死で生きています。生き抜いてやるという強い意志は、英国より日本より強いと思います」
「日本からスラム街が消えた時、ハングリー精神も覇気も霧消したという老人が大勢いた。俺たちは、それを鼻で笑ったものだ。ノスタルジーもいい加減にしてほしいとな。だが、今の篤志の話を聞いていると、間違っていたのは俺たちの方なのかもしれない」
「日本は戦後、ずっと国民を過保護に育ててきました。決して贅沢はさせませんでしたが、国家が国民と国益を守り、導くという政治を揺るぎなく貫いてきた。
そして、国民は勤勉で応えた。この構図を、我々は美談にしていますが、ただ勤勉なだけでは、国家は立ちゆきません。だって、国民主権なんですから。
でも、そこに向き合うことなく、“お上に任せている”状態のまま生きてきたツケを、僕らは払わされているんじゃないんでしょうか。ならば、我々日本人もケネディの言葉を理解しなければならない時だと思うんです」
日本のことを、「世界で最も成功した社会主義国家」と評する人は多い。実際、周防もそう自覚している。つまり、国家が母となり父となり、国民を自らの羽で包み込み、守り続けてきた。
そして、国民は生きる力を失ったのではないか。だとすれば、なんと皮肉なことか……。
「ロンドン大学では、若い日本人留学生の友人がたくさんできました。その一人が、『最近、国家なんていらないのではと思うようになっちゃいました』と言ってました。
僕が『国民の命を守る、国益を守るために国家は不可欠じゃないのかな』と答えたら、笑われました。
『コロナ禍で、しょうもないマスクを配ることをそう言うんですか。国民の利益を守るためって言ってますけど、カネもないのに、ばらまきばかりで、本当に国民の利益を守ってるんでしょうか』と返されて、反論できませんでした。
結局、政権も官僚も、国民によかれと思ってやっていると思い込んでいただけじゃないのか。官僚は省益しか頭になく、国民から嫌われて票を失いたくない政治家が、さらにカネをばらまく。それが、日本人から自分で生きる自覚を奪っていったのかも知れない、という考えに行き着いたんです」
暫く考え込んでいた江島が口を開いた。
「確かに日本人は弱くなったという実感は、私にもある……それが我々政府の責任だというのは、認めたくないな。だが、本当はずっとそれを知っていたんだ。ただ、見て見ぬふりをしていただけだと……今、気づいたよ。
本当にこの国に革命的な変化を起こさなければならないとしたら、今の篤志のような発想が必要なのかも知れないね」
畏れ多くも元総理の前で、なんという暴言を吐いたのだ! と先輩の土岐なら、思いっきり頭をはたきそうだ。
だが、もはや庇いようのない事実なのだ。大局観の欠片もなく、安っぽい損得勘定に執着し、大事なことは見て見ぬふりして目の前の課題だけとりあえずやり過ごしているうちに、僕らの国は息も絶え絶えの状態になってしまった。
「江島さん、先ほどの増税について、もう一つ重要な要素を言い忘れていました。増税のためには、従来の予算の全てについて精査する必要があります。国民が増税を許さないのは、もっと歳出を削れるだろうという思いがあるからです。
必要なもの、不必要なものをはっきりと国民に提示し、国を立て直すために何を為すのかも提案しなければなりません。その合意を得た時にはじめて、増税へと舵が切れるのではないでしょうか」
「よし、ではさっそく同志らと語り合う場を作ろう」
「来週から現場復帰となるので、それまでに、たたき台を持参します」
「頼むよ。それにしても篤志、君は見違えたな」
まさか。財務官僚としては、どんどん異端を走っている気がしているのに。
「ところで、もう配属先は決まっているのか」
「主計局防衛係主査です」
「今、一番ホットな部署じゃないか。人事はしっかり君の力を評価しているんだな」
火中の栗を拾わせるなら、周防にやらせろ、という悪意ではないかと思っている。
あるいは、江島の画策か。
自分としては、主税局に行きたかった。国民に相応の負担を求める施策を考えたかったからだ。
「ところで、江島さんにおたずねしたいことがあるのですが。梶野元総理が、このところ、盛んに防衛費倍増を連呼されているだけではなく、核武装とまで仰っておられますね」
知っているという顔をした。
その時、「失礼します」と障子の向こうから声があり、松下政策秘書が入ってきた。
「いやあ、周防君、おかえりなさい。元気そうで何より」と言いながら、タブレット端末をテーブルに置いて、動画を再生した。
NHKのニューススタジオから、女性アナウンサーが沈痛な面持ちでニュースを伝えた。
“事故に遭った車には、元総理の梶野直臣さんが乗っており、梶野さんは、病院に運ばれましたが、死亡が確認されたとのことです” (続く)
執筆者プロフィール
真山仁
[まやま・じん] 1962(昭和37)年、大阪府生まれ。同志社大学法学部政治学科卒業。新聞記者、フリーライターを経て、2004(平成16)年に企業買収の壮絶な舞台裏を描いた『ハゲタカ』で衝撃的なデビューを飾る。同作をはじめとした「ハゲタカ」シリーズはテレビドラマとしてたびたび映像化され、大きな話題を呼んだ。他の作品に『プライド』『黙示』『オペレーションZ』『それでも、陽は昇る』『プリンス』『タイムズ 「未来の分岐点」をどう生きるか』『レインメーカー』『墜落』『タングル 』など多数。
(2023年3月16日掲載)