平壌中心部に林立する立派な高層マンション。金正恩政権が「人民が最も喜ぶ事業」「第一次的な重要政策課題」として住宅建設に力を入れた結果、ここ数年で平壌の景色は大きく変わった。だが、その恩恵を受けられるのは一部だけで、高層マンションのすぐ裏手には古いバラック住宅が広がっている。そうした様子は、現地に直接足を運ばなくともGoogle Earthを眺めているだけでよく分かる。表層と深層のズレは何事においても見られるが、プロパガンダを重視する北朝鮮をめぐってはなおさらである。
「本音」で生きた孤高の作家、萩原遼さん【礒﨑敦仁のコリア・ウオッチング】
金正恩・朝鮮労働党第1書記(当時)が「経済建設と核武力建設の並進路線」を掲げたのは今から10年前、2013年3月末のことであった。金日成時代に唱えられた「経済建設と国防建設の並進路線」を復活させ、さらに発展させたものであり、核・ミサイルを中核とした兵器開発を、経済建設と同時並行的に進めていくというものだ。
2016年には朝鮮労働党の党規約にも「並進路線」が明記され、これにより長期的戦略に基づくものとみられるようになった同路線だが、2018年4月に突然、終焉(しゅうえん)を迎える。「並進路線」は勝利したとして、新たに「経済建設に総集中する路線」のスタートが宣言されたのである。
その背景にあったのは対米関係の変化だ。ドナルド・トランプ米大統領(当時)が史上初の米朝首脳会談にゴーサインを出したことを受け、金正恩政権としても兵器開発を前面に掲げないようにしたのである。実際に、2018年は外交の年となり、北朝鮮は核実験はおろかたった一度の弾道ミサイル発射実験もしていない。
宣言なき「並進」回帰
その後、ハノイでの第2回米朝首脳会談が決裂し、経済制裁の一部緩和すら得られなかった北朝鮮は内向き姿勢に戻った。今年5月31日には、初の軍事偵察衛星打ち上げに踏み切って失敗した。
再び兵器開発にまい進している現状を見れば、とても「経済建設に総集中する路線」には思えないのだが、北朝鮮は正式に路線の転換を宣言していない。今でも「経済建設に総集中する路線」が継続している建て前なのだ。もちろんのこと、北朝鮮とて「人民生活の向上」をはなから諦めているわけではなく、「自力更生、自給自足」による経済の立て直しを図ろうとしている。人民を思想教育や暴力装置で抑えつけるだけではなく、生活の向上を実感させてこそ真の忠誠心を引き出せると考えているのだろう。
「経済建設に総集中」するという旗は下ろさずに、同時に兵器開発も進める。要するに現況は、実質的な「並進路線」への回帰であると言える。
いや、そもそも考えようによっては北朝鮮は建国以来ずっと「並進路線」をとってきたのではないか。わざわざ「並進路線」を宣言しなくとも、韓国との体制間競争に対処すべく、北朝鮮の歴代指導者は経済建設と兵器開発を並行して進めてきた。金正日時代には「先軍政治」が掲げられ、それは「先軍路線」と称されることもあったが、韓国から巨額の経済支援を引き出す一方、軍隊を経済建設に動員して経済難から脱しようという側面もあった。
つまり、北朝鮮現代史は「並進路線」そのものだったと考えてもよいということだ。国内外環境によって経済、軍事のどちらにより重点を置くかという比重の問題、程度の問題である。なにも北朝鮮問題に限ったことではないが、物事を0か100かで解釈しようとすれば焦点がぼやけてしまう。政治的な事象を分析するうえでは、キャッチ―な用語に引きずられず、実態に即した柔軟な発想での観察を心掛けたいものだ。
【筆者紹介】
礒﨑 敦仁(いそざき・あつひと)
慶應義塾大学教授(北朝鮮政治)
1975年生まれ。慶應義塾大学商学部中退。韓国・ソウル大学大学院博士課程に留学。在中国日本国大使館専門調査員(北朝鮮担当)、外務省第三国際情報官室専門分析員、警察大学校専門講師、米国・ジョージワシントン大学客員研究員、ウッドロウ・ウィルソンセンター客員研究員を歴任。著書に「北朝鮮と観光」、共著に「新版北朝鮮入門」など。
(2023年6月29日掲載)
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