久しぶりに長野県松本市を訪れた。市議選に立候補する友人のためにウグイスボーイ(「カラス男」ともいう)のボランティアを買って出たのだ。
松本は、作家の萩原遼さんと勉強合宿で訪れた思い出の地である。応援マイクを握り、ワゴン車で市内を走り回りながら、萩原さんのことを懐かしく思い出していた。そういえば、萩原さんが平壌から追放されて、ちょうど半世紀になる。
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萩原さんは1937年、高知県生まれ。大阪外国語大学朝鮮語学科を1期生として卒業し、日本共産党中央委員会機関紙『赤旗』の記者となった。その後、『赤旗』特派員として平壌支局に赴任したが、1973年4月17日に国外追放された。旧友を探そうと自由に街を歩き回ってしまったためにスパイ容疑を掛けられたのであった。詳しい経緯は、第30回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文藝春秋、1998年)に描かれている。
『赤旗』が平壌支局を置いていた時代は、自由民主党や公明党からも大物国会議員が続々と訪朝して金日成主席と日朝友好を高らかに謳(うた)っていたが、日本共産党は路線の違いもあって早々に朝鮮労働党と関係断絶に至っている。
帰国後、北朝鮮への不信感を募らせた萩原さんは、ワシントンでの朝鮮戦争研究を経て、北朝鮮の人権問題を糾弾する急先鋒(せんぽう)になっていく。直接お会いすると、これでもかと豪快に瓶ビールをあおりつつ、共同代表を務められていた「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の活動について熱っぽく語られた。
萩原さんは長い間ワープロを使わず、手書きで原稿を書いていた。作家さんらしく、原稿用紙も自らの名が入った特注のものだった。私が大学院生の頃には、文才溢(あふ)れる手書き原稿をMS-Wordで入力するというアルバイトをやらせてもらったが、誰よりも早く萩原さんの原稿を読むことができるという、プライスレスの仕事だった。20年前に、中朝国境を2人だけで旅したのも思い出深い。2005年、小泉純一郎首相と金正日国防委員長が署名した「日朝平壌宣言」に対する党の見解を批判したとして、日本共産党を除籍された。 反骨の姿勢は2017年に80歳で亡くなるまで一貫していた。
私が大学に就職したときには、やはり瓶ビールでお祝いしてくださったが、酔いが回ると「大学という権威は大嫌いだ」と声を荒らげることも忘れなかった。本音しか口にしない萩原さんから教わったのは、「自分をさらけ出して書け」ということだった。私は作家ではないし、研究者としてもまだ中途半端ではあるが、時事ドットコムからコラム連載のお声が掛かったときにこの助言を思い出した。
「萩原遼」はペンネームで、ほかにも複数の名義をお持ちだった。日本共産党の本部が「代々木」の通称で知られ、代々木が渋谷と千駄ケ谷の間にあることから「渋谷仙太郎」と名乗ったこともあった。「萩原遼」としての処女作は『淫教のメシア・文鮮明伝』(晩聲社、1980年)である。いま日本や朝鮮半島で起きているさまざまな事象を、萩原さんはどう見ておられるだろうか。
【筆者紹介】
礒﨑 敦仁(いそざき・あつひと)
慶應義塾大学教授(北朝鮮政治)
1975年生まれ。慶應義塾大学商学部中退。韓国・ソウル大学大学院博士課程に留学。在中国日本国大使館専門調査員(北朝鮮担当)、外務省第三国際情報官室専門分析員、警察大学校専門講師、米国・ジョージワシントン大学客員研究員、ウッドロウ・ウィルソンセンター客員研究員を歴任。著書に「北朝鮮と観光」、共著に「新版北朝鮮入門」など。
(2022年4月17日掲載)
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