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北極の温暖化と悪循環のメカニズム◆「早ければ2025年に」は本当か?(下)杉山慎

2023年11月16日11時00分

地球の気候をコントロールするAMOCとは

 海氷の融解に端を発する連鎖によって、北極の気温上昇が止まらない。そして北極域の急激な温暖化が、大気を通じて日本の気候に影響を与えている。その大気の動きに加えてさらに、海の流れが北極と世界をつないでいる。海水は1000~2000年をかけて地球全体をゆっくりと巡っているが、その一角を成すのが「大西洋南北熱塩循環(Atlantic Meridional Overturning Circulation=AMOC)」である(図1)。

 AMOCと呼ばれるこの海洋循環では、大西洋表層の海水が北へ流れて、赤道から北半球へと熱が運ばれる。日本よりも緯度が高い北米東海岸やヨーロッパが温暖なのは、この流れのおかげである。

 なぜ北向きに流れるのか。その理由が北極にある。南から流れてきた海水は、蒸発が進んで塩分が濃縮すると共に、北極に近づくにつれて冷やされる。塩分が濃く、冷たい海水は密度が高い。すなわち重たくなった海水が大西洋の北、グリーンランドの沖で沈み込むのである(図1、図2上)。熱いお風呂に入ったら底の方は冷たかった、という経験があればそれと同じ理屈である。

 この沈み込みがポンプのような役割を果たすことによって、南から海水が呼び込まれて北向きの流れが維持される。水温と塩分の変化が駆動する「熱塩循環」がAMOCをつくり出しているのである。

「今世紀半ばにAMOC停止」を予想する学者も

 AMOCは欧米の気候に直接的な役割を果たすので、その変動には大きな注目が集まっている。2004年に公開された米国映画「デイ・アフター・トゥモロー」をご存じだろうか。異常気象が世界を襲い、寒冷化によってマンハッタンが数週間で凍りついてしまう。そんなシナリオの背景にあるのが、AMOCの停止であった。

 AMOCによる熱輸送が止まれば、確かに欧米は寒冷化するであろう。あまりにも急激な展開は非現実的だが、登場人物が口にするセリフはあながち荒唐無稽とは言えない。また海洋循環が地球全体を巡って気候をコントロールしていることを考えると、世界中が異常気象に巻き込まれるシナリオは、よく出来た映像とあいまってそれなりの説得力がある。

 映画が大ヒットした理由の一つは、AMOCを原因とした急激な気候変動が、過去実際に起きていたからだ。北半球の気温を数万年さかのぼると、数十年で10℃にも達する急速な寒冷化が何度も記録されている。このとてつもない気温変化に先立って、北米大陸を覆っていた氷床が大きく融解した痕跡が残っており、激変のメカニズムが以下のように提案されている。

 まず、何らかの原因で氷床が大規模に融解し、融け水が北大西洋に流入する。淡水によって塩分が薄まった海水は密度が減って軽くなる。軽い海水は沈み込めないので循環のポンプが止まり、AMOCが弱まって北半球への熱輸送が停止する(図2下)。

 数万年前に起きたとされるそんなイベントが今世紀中に起きる、と言われたら信じられるだろうか? 今年2023年7月、「このままの気候変動が進めば今世紀半ば、早ければ2025年にもAMOCが停止」との見解を示す学術論文が出版された(注3)。

 これは降って湧いた研究発表ではない。21世紀に入ってAMOCが弱まる傾向は確認されており、その将来予測は気候科学における重要課題の一つである。しかしながら、2021年に公表された国連の「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」第6次評価報告書では、「21世紀中にAMOCが停止する可能性は非常に低い」とされていた(注4)。そのわずか2年後にそれを覆す結果が示されたのである。

巨大なグリーンランド氷床の融解

 いまAMOCに注目が集まる理由は、グリーンランドを覆う氷床にある。グリーンランド氷床の面積は日本の4.5倍、氷の厚さは平均1700メートル、北半球最大の氷の塊である。21世紀に入って氷床の急速な融解が始まり、流出する淡水によって海水の塩分が薄まりつつある。まさに過去に起きたとされる気候激変のメカニズムである。

 氷床融解のインパクトは海洋循環だけにとどまらない。世界全体で進行する海水準の上昇にも直接的な影響がある。氷床の周辺に散在する氷河も含めると、近年の海水準上昇の約20%が、グリーンランドにおける氷の融解によって生じているのだ。

 温暖化の影響を受けて融解が止まらない氷河氷床、私は世界各地でその変化を研究している。グリーンランドでは2012年から現地調査を開始した。これまでの調査によって、特に海に直接流れ込む氷河で大量の氷が失われていることが明らかになっている(図4)。氷が解けるだけでなく、氷山の流出量が増えたことで、地域によっては氷が毎年数メートル薄くなっている。

 また氷河の表面が黒く染まって、太陽エネルギーの吸収が増えている(図5)。これは氷を好む微生物の繁殖によるもので、その影響で融解がさらに加速している。激変する北極の氷河氷床を正確に理解するために、長期的な現地観測データの蓄積に加えて、人工衛星を使った観測、コンピュータシミュレーションの精緻化が急務となっている。

不透明な将来に向けて何ができるのか

 歯止めが利かなくなってきた地球の温暖化。その影響を最も強く受けているのが北極である。科学者がその重要性に気付いたのは最近のことで、北極における観測の歴史は浅い。例えばAMOCに関する海洋観測が始まったのはようやく21世紀に入ってからで、その将来変動を議論するにはデータが不十分である。上述した今年7月の論文発表も様々な議論にさらされており、AMOCの将来予測に一石が投じられたにすぎない。

 この夏の気温が示す通り、私たちが暮らす地球は過去に例のない状態にある。来年何が起きるかも分からない今、将来の気候変動をピンポイントで予測することはできない。それでも科学者はベストを尽くして、気候が進む方向とそのずれ幅を明らかにしようとしている。台風の進路予測のようなもので、暴風圏に入る可能性があればその備えが必要になるであろう。しかしながら、今後の気候変動は台風の進路とは異なる。私たち人間の手でその方向を変えることができるのだ。気候の暴走を少しでも食い止めるために、温室効果ガスの抑制に向けた政治・経済・社会の取り組みが必要である。(2023年11月16日掲載)

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

杉山 慎(すぎやま しん)

北海道大学低温科学研究所教授。南極、グリーンランド、パタゴニア等の地域で、氷河氷床の研究に従事。北大の大学院プログラム「南極学カリキュラム」にて、次世代の極域科学研究者を育成中。近著に「南極の氷に何が起きているかー気候変動と氷床の科学(中公新書)」。


注1.注1.Chylek, P. et al. (2022). Annual mean Arctic Amplification 1970–2020: Observed and simulated by CMIP6 climate models. Geophysical Research Letters, 49, e2022GL099371. https://doi.org/10.1029/2022GL099371
注2.気象庁プレスリリース「令和4 年冬の天候の特徴とその要因について」2022年3月14日、https://www.jma.go.jp/jma/press/2203/14b/kentoukai20220314.pdf
注3.Ditlevsen, P.,Ditlevsen,S. 2023. Warning of a forthcoming collapse of the Atlantic meridional overturning circulation. Nature Communications, 14,4254.https://www.nature.com/articles/s41467-023-39810-w
注4.IPCC第6次評価報告書・第1作業部会報告書 https://www.ipcc.ch/report/sixth-assessment-report-working-group-i/

北極の温暖化と悪循環のメカニズム(上)◆杉山慎

地球温暖化の現在地 氷河が融けた先の世界は◆杉山慎

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