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高校野球の名将小倉全由さんが振り返る監督人生 「4番大谷翔平」の理由、合宿所のプリン(前編)

2023年11月20日13時30分

 高校野球の名門、日大三(東京)の監督として夏の全国選手権大会で2度の頂点に導き、今年3月末に定年で退任した小倉全由さん(66)が時事通信のインタビューに応じ、自身の足跡を語った。監督の振り出しとなった関東一(東京)時代を含め、甲子園春夏通算37勝の名将が貫いた指導哲学は、対話と理解を尊重する姿勢だった。2012年には高校日本代表の監督を務め、ソウルで行われた18歳以下(18U)世界選手権を指揮。今や米大リーグのスーパースターで今季のア・リーグ最優秀選手(MVP)に選出された大谷翔平選手を当時、迷いなく代表チームの4番打者に据えるなど、逸材を見抜く眼力にもたけていた。(時事通信運動部 前川卓也) ◆後編を読む

 18U世界選手権の当時、大谷は花巻東(岩手)の3年生だった。春の選抜大会に出場し、今季は大リーグのオリオールズなどでプレーした藤浪晋太郎投手と森友哉捕手(現オリックス)がバッテリーの大阪桐蔭と1回戦で対戦。藤浪に本塁打を浴びせたが、2-9で敗れた。大阪桐蔭は選抜大会も選手権大会も制して春夏連覇。大谷は夏の岩手大会準決勝で高校生初の「160キロ」をマーク。しかし、決勝で敗れて高校最後の夏は甲子園に出場できなかった。

純粋に打力を評価

 その夏の甲子園大会では、大阪桐蔭や3季連続準優勝となった光星学院(青森、現八戸学院光星)に強打者が粒ぞろい。大阪桐蔭には森や田端良基内野手、光星学院にも北條史也内野手や田村龍弘捕手がいた。そうした中でも、小倉さんは真っ先に大谷のバットに着目した。

 「あれは単純な話ですよ。実績に関係なく素晴らしいものを持っていたことに加え、『二刀流』といっても高校野球までは、力のある選手が4番でエースなんて珍しいことではありません。純粋に大谷選手の打力を評価しただけです」

 世界選手権の初戦は指名打者を使わず、4番投手で起用。12チームが参加して6位に終わったものの、大谷がチームを支えてくれたとうなずく。当時の寄せ書きには「戦力になれず、申し訳ありませんでした」といった趣旨の言葉が記されていたという。「大谷選手が頑張ってくれたから、いい戦いができたのに、本人にしてみると勝利投手になれなかったとか、頂点を取れなかったとか、そういう責任感で書いたんでしょうね」

「大成するぞ」を超越

 最も印象に残っているのは、ブルペン投球での大谷とのやりとり。制球が定まらず、ストライクが入らない日があった。そこで小倉さんは、これまでの指導の経験則に従い「こう調整したらどうだろうか」などと助言。すると大谷は、話している内容やポイントをしっかり理解した上で「こういう時には自分は、こう調整した方がいいと思っています」と返答したという。

 「言うことを聞かないのではなく、あの年齢の頃から、自分をしっかり持っていた。助言をかみ砕いた上で、しっかりと考えて成長していく。『本当に素晴らしい、これは大成するぞ』と思っていたら、そんな考えさえ超越した偉大な選手になってしまいましたね」

挑戦心にあふれていた

 「ドラフト会議前から米国に行きたいと言っていましたが、あの貫いた思いが今の大谷選手を形づくったんだと思います。その頃から挑戦心にあふれていた。常に先を、と言いますか、それをいつも考えているからこそ努力が生まれ、結果につながったんだろうなと強く感じます」

 ア・リーグ最多の44本を放ち、野球の華とも言える本塁打王のタイトルを獲得した大谷に賛辞を贈る。

 「想像もつかないことですよ。米国の選手もファンでさえも、プレーだけでなく彼の立ち居振る舞いが素晴らしいとたたえる。そこに沸き立っているなんて、すごいことですよね」

私は本当に幸せな監督

 今年3月22日、東京都町田市にある日大三の練習場。小倉さんが行う最後のノックに、卒業生が150人も駆けつけた。退任理由の一つは「肘や膝を痛め、しっくりとくるノックが打てない。ここが引き際」。区切りを彩ったのもノックだった。

 「最後の日というだけで、あんなに人が集まってくれましてね。本当はみんなに『日大三に来てよかった』『甲子園に出られてよかった』という二つの宝物をあげたかったんですけど。でも、甲子園に出られなくても『監督さんと一緒に野球ができてよかった』と言ってくれて…。勝ち負けだけじゃない人間関係と言うのでしょうか。私は本当に幸せな監督でした」

消えた「キャンパスライフ」

 指導者の歩みは、大学1年生から始まった。母校の日大三を卒業し、日大へ進学。高校時代は背番号13の控え選手で甲子園出場を逃し、両肩の故障にも苦しんだ経緯から、本当は野球と決別するつもりでいた。自由気ままな大学生活を満喫しようと思っていたら、高校時代のコーチで翌秋から監督に就くことが決まっていた小枝守さん(故人)が「遊んでいるなら手伝ってくれよ」。当時は年配者の言うことは絶対との意識があり、二つ返事で引き受けたという。

 「最初は『なんで俺が』って気分でしたよ。高校の寮をようやく出て、キャンパスライフを楽しもうと思っていたところで、指導者として高校の合宿所に戻ったんですよ。このまま4年間、また過ごすのかって」

 学生コーチを務めて4年目の1979年夏。小枝監督の下、母校が17年ぶりに夏の甲子園出場を勝ち取った。小倉さんにとっては、初めての聖地。「甲子園って本当にいいな」。この思いが、指導者の道へといざなった。

縁あって関東一を指揮

 当時の部長先生に「このまま日大三でコーチをしてくれ」と頼まれ、快諾した。ところが大学4年の12月に監督が代わり、この話は立ち消えになって就職浪人に。幸い大学で教員免許を取得していた。千葉県の実家で教員採用試験へ向けて勉強していたところ、関東一が指導者を探しているとOBから連絡が入った。話はとんとん拍子に進み、年末から指導を始め、81年4月に監督に就任した。

 関東一では85年夏に甲子園初出場でベスト8。87年春はセンバツ準優勝に導いた。翌年に退任の憂き目に遭ったものの、92年12月に乞われる形で監督復帰。甲子園は春夏とも2度ずつ出場という実績を引っ提げ、97年から母校の日大三を率いることになった。合宿所で選手と寝食を共にし、喜びも悔しさも分かち合う生活が始まった。

母校を指揮、理不尽根絶へ

 「せっかく高校野球をやっているのに、夏を熱く終えることができなかったら、こんなに悔いが残るものはないよ」

 高校野球の監督人生で事あるごとに選手を諭した言葉が、それだった。自分の経験から湧き出た素直な思いだ。理不尽な指導やしきたりが横行していた時代に高校球児だった小倉さん。心がささくれ立ったことも、一度や二度ではなかった。

 「私は原辰徳さんの一つ上なんですよ。彼がいた当時の東海大相模は強く、ある日、練習試合が組まれていたんですが、雨で流れました。すると、みんなで万歳をしてしまいました。負けたら、監督がいいと言うまでポール間を走り続ける『無限ちゃん』というのがあったんです。強いチームとの対戦になると、みんな負けた時のことばかり考えてしまっていました」

選手と心を通わせる

 指揮した日大三での2度の甲子園制覇は強力打線が看板だった。ただし、重視したのは打撃練習や体力強化などではない。「自ら一歩を踏み出す人間の育成」という自主性と、選手と心を通わせた指導。高校時代、不完全燃焼のまま現役を終えた悔いが、今も心に残り続けているからだった。だからこそ、対話と相互理解の尊重が選手指導の根底にある。

 例えば三塁手へのノックで三塁線に強い打球を打った時、左翼線への長打を避けるため、捕れなくてもフェアゾーンにこぼすことが鉄則だ。その際は捕球体勢や判断といった技術的な助言に加え、なぜそうするかという理由や、体を動かすための思考方法を説き、「ちゃんと考えてプレーしたら、必ずいい結果が出るから」と付け加える。

 「大事なのは、選手が意図を理解して前向きな姿勢になること。選手が自分で考えてチャレンジし、それをやり切って自信とする。それが本当の成長であり、伸びるための手助けだと思っています」(後編に続く) ◆後編を読む

 小倉 全由(おぐら・まさよし) 1957年4月10日生まれ、千葉県一宮町出身。日大時代に学生コーチとして母校の日大三を指導。81年に関東一の監督に就任し、88年にいったん退任、92年12月に復任。その間に87年春の準優勝など甲子園に春夏計4度導いた。97年から日大三の監督を務め、2001年に同校初となる夏の甲子園制覇。10年春に準優勝、11年夏には2度目の優勝。23年3月で勇退した。現在は解説者に加え、日本高校野球連盟で技術・振興委員を務める。

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