2023年10月7日、イスラエルでイスラム原理主義組織ハマスによる大規模攻撃が発生し、世界を震撼させた。
同日の早朝6時30分から始まった攻撃では、ハマス側から2500発のミサイル(イスラエル軍の主張。ハマスは5000発を発射したと主張)が、イスラエル南部から中部へ向けて発射された。
そして7時40分には、ハマスのテロリストが車やバイクでセキュリティを突破してイスラエルに侵入、次々と無慈悲に民間人を殺害した。テロリストの中には、パラシュートでイスラエルに入る者や、海上のボートでイスラエルに向かう者もいた。
結局、イスラエル側で1300人ほどが殺害され、250人がテロリストらによって、人質としてガザに連れ去られた。その後、イスラエル軍は報復としてガザ地区へ大規模空爆を行っているが、連れ去られた人たちは「人間の盾」として拘束されている。ガザ地区ではイスラエルからの報復攻撃によって、7000人以上が死亡したと報告されている(10月26日時点)。
今回のハマスによるイスラエルへの大規模テロでは、なぜイスラエル側がテロ情報を事前につかみきれなかったのかとメディアなどで議論になっている。世界的にも諜報活動に定評のあるイスラエルの情報機関が「大失態」を犯したのではないか、というのである。
これまで多くのイスラエルの情報関係者たちに取材してきた筆者としては、情報機関が「大失態」したというのは信じ難い。なぜなら、イスラエルの情報機関は、世界でも有数の能力を誇っているからだ。本当にイスラエルのスパイたちは大きなミスを犯したのだろうか―。実情を踏まえて考察してみたい。
「最恐」といわれるイスラエルの諜報機関
まずはっきりしておきたいのは、今回のテロ事件はすでに発生してしまっているということだ。イスラエル国内で多くの一般市民が殺害されたことは紛れもない失態である。つまり、テロの発生を許してしまったことは、国民を守るはずのイスラエル政府にその責任がある。
イスラエルの情報機関の一つであるシンベト(イスラエル総保安庁)のロネン・バー長官は、「われわれは任務に当たっていたが、残念ながら攻撃を阻止するための十分な警告を伝えることができなかった。組織のトップとして、責任は私にある」と語っている。
シンベトとは、イスラエルにある三つの主要な情報機関の一つ。別名シャバクと呼ばれるシンベトは、国内情報機関としてイスラエル国内で起きるテロや破壊工作、スパイ活動などについての情報を収集して対処する防諜機関である。特に、ヨルダン川西岸地区やガザ地区からのイスラム過激派らによるテロ活動にも目を光らせており、今回、ハマスのテロリストらへ侵入を許したのは、彼らの責任ということになる。
イスラエルの情報機関と言えば、世界的に最も知られている対外諜報機関のモサド(イスラエル諜報特務庁)がある。
モサドは、自国を守るためなら容赦しない「最恐」の組織としても知られている。イスラエルに対する脅威について情報収集し、時には、脅威を排除するために暗殺も辞さない。例えば2010年には、ハマス創設者の一人で、軍事部門幹部のマフムード・マブフーフが、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイのホテルでモサドに属すると見られる工作員らに暗殺される事件が起きている。現在のハマス幹部らの多くは、モサドによる暗殺工作を何とかしのいで生き延びてきた者が少なくない。
今回のテロ事件のニュースを知った時に筆者がまっさきに思い出したのが、少し前に取材をしたモサドのタミル・パルド元長官の言葉だった。パルドはイスラエルのスパイ活動について「攻撃される前に対応しなければ意味がない」と語っていた。さらに、「イスラエルは建国以来、ずっと脅威にさらされており、私たちは、そうした様々な脅威を早い段階で排除する必要があった。すべては、ここイスラエルに安全をもたらすためだ」と言っていた。
「宿敵」の動きを見逃したとは考えにくい
そんなDNAを持つモサドが、最大の脅威で宿敵であるパレスチナのイスラム過激派の動きをやすやすと見逃すことは、筆者のイスラエル情報機関関係者への取材結果からも考えにくい。
モサドのスパイ能力には、世界中のスパイたちの間でも一目置かれているという。情報収集や秘密工作も行い、盗聴やハッキング、衛星情報などを駆使して、米国の中央情報局(CIA)からも信頼されるインテリジェンス活動を実施している。
イスラエルの日刊紙ハーレツによれば、モサドは7000人ほどの職員を抱え、予算も327億ドル規模で、世界でも最大級の組織であると言える。
CIAなどの情報機関や他のインテリジェンス強国などとも関係を維持している。特にCIAとのインテリジェンスにおける協力関係はどこよりも深く、その関係性は、米国と英国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダが締結している有名なインテリジェンス協定「ファイブアイズ」の国々よりも密接だ。元CIA幹部によれば、CIAとモサドは、ほかのファイブアイズの国々ともやらないような「情報分析の検討、情報共有、共同作戦」のいずれも行っているという。
イスラエルにはさらに、モサド以外にも、アマン(参謀本部諜報局)と呼ばれるイスラエル軍の情報機関がある。アマンには、イスラエル軍が世界に誇る有名なハッキング集団の「8200部隊」が存在する。ガザなどでも、電子機器から通信まで徹底した監視活動を行っている。
言うまでもなく、情報機関が収集した情報は、イスラエルの他の情報機関内でも共有されている。
こうした能力がある一方で、イスラエルの情報機関がテクノロジーなどに頼りすぎているのではないかと批判をされることもある。今回のハマスの攻撃でも、ハマスの首謀者らはデジタル機器を使わず、監視網に引っかからないように活動していたという話も出ている。そのせいで、今回の大規模攻撃の兆候をつかめなかったのではないか、というのだ。
しかし、それはイスラエルの情報機関を甘く見過ぎているように思える。確かに、例えば、国際テロ組織アルカイダの最高指導者で、米国で2001年に発生した「9.11」同時多発テロの首謀者だったウサマ・ビンラディンは、盗聴やハッキングなどの技術力に定評があるCIAの目をかいくぐって生活するために、電話や、通信ができる電子機器などは一切使っていなかった。だからこそ、長年、逃亡生活をすることが可能だった。
イスラエルの情報機関は、そうしたテロ組織側の対策に関してはもちろん織り込み済みだと考えられる。
筆者の知人の元アマン隊員によると、デジタル機器や通信機器などを避けて活動するテロリストらを監視するチームももちろん存在しており、この隊員自身も、住宅などに盗聴器を仕掛ける任務を担うチームにいたと話してくれたことがある。
結局のところ、今回の大規模攻撃を許したことは、イスラエルの情報機関の大失態だったのか? ここまで見てきた通り、最大の脅威とも言えるハマスへの監視に落ち度があったとは考えにくい。
情報の消化不良が悲劇を生む
問題となるのは、情報機関によって集められて分析されたインテリジェンスを「消費」する側である政府がどのように扱うか、だ。現在のベンヤミン・ネタニヤフ政権はいろいろな問題を抱えていた。例えば、ネタニヤフ首相自身が保身のために可決したと批判される最高裁の権限を削ぐ司法改革では、自身が汚職事件の裁判中であるネタニヤフが暴走しているという反発が出ており、国内で大規模デモなどが起きていた。
また現在のネタニヤフ政権が、極右・宗教政党と連立を組んでいて「史上最も保守的」であるとして、政府の内外で不満が高まっている。
さらにパレスチナ問題でも、ヨルダン川西岸地区の入植問題でパレスチナ側と銃撃などの衝突が起きていて、政府のガザ地区への対応が手薄になっていたのではないかとも指摘されている。
そもそも情報機関というものは、国家の政策を作る組織ではない。国の政策や方向性を決め、そのための対策を実行に移したり、立法を行う政府に、判断材料や根拠となるインテリジェンスを提供することが仕事である。
今回、テロによって数多くのイスラエル人の命が奪われた最終責任は、情報機関にあるのではなく、政府にあるのだ。イスラエル政府の判断ミスなどによって民間人に多大な犠牲が出ており、深刻な人道危機が起きている。イスラエル政府関係者によれば、10月7日に発生した事件の失態は、事態が落ち着きを見せたあとで徹底した検証が行われることになる。
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山田 敏弘(やまだ としひろ)
国際情勢アナリスト、日本大学客員研究員。講談社、ロイター通信社、ニューズウィーク日本版、MIT(マサチューセッツ工科大学)フルブライトフェローを経てフリーに。近著に『プーチンと習近平 独裁者のサイバー戦争』(文春新書)。著書に『ハリウッド検視ファイル トーマス野口の遺言』、『ゼロデイ 米中露サイバー戦争が世界を破壊する』、『CIAスパイ養成官』、『サイバー戦争の今』、『世界のスパイから喰いモノにされる日本』、『死体格差 異状死17万人の衝撃』など。
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