ボブ・スミートン監督
4年でロックの歴史を変えたバンド
ビートルズが事実上の解散を迎えたのは1970年。半世紀が過ぎた今でも各種メディアが彼らの特集を頻繁に組むほど特別な存在であり続けるが、60年代末、負けじとヒットチャートをにぎわしたバンドがあった。クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)だ。全米一の人気バンドとなりながら、わずか4年ほどで解散。そんな彼らの姿を追ったフィルムが50年ぶりに発見され、ドキュメンタリー映画として構成された。(時事ドットコム編集部 冨田政裕)
『プラウド・メアリー』『雨を見たかい』など後に米国ロックのスタンダードとなる名曲を次々と発表したCCRには、シルバー・コレクターとでも呼べそうな若干の運のなさもあった。69年はまさに快進撃の年で、全米チャートで4枚のシングルがトップ3に入り、3枚のアルバムがトップ10入り。続く70年もレコードは売れまくったものの、シングルはどうしても2位までしか上がらなかった。
『THE Billboard BOOK OF NUMBER ONE HITS』(フレッド・ブロンソン著)という古いペーパーバックが筆者の手元にある。1955年から85年の間に全米チャートの1位を飾った曲とアーチストの話をつづった書物だ。CCRは最高が2位のため記述がないが、豆知識的なクイズのページに入れて敬意を表している。
「ヒットチャートで2位になったシングルを5枚も出したのに、一度も1位になれなかったグループの名は?」
音楽的な特徴で言えば、CCRはメンバーの4人ともカリフォルニア州出身ながら、米国南部を志向した作品が多かった。60年代の終盤はベトナム戦争が泥沼化。反戦運動とヒッピー文化を背景に、LSDなどがもたらす幻覚状態を表現したサイケデリック・ロックが広まった。しかしCCRのサウンドは太陽のようにたくましく、南部の湿地を思わせる空気感と泥臭さを持っていた。ほとんどの曲は2分から3分前後とコンパクトなのに、骨太で耳に残る作品が多く、ロックの新たな潮流を作った。
「愛と平和」を求める動きが次々と挫折していった60年代末に、CCRが追い求めていたサウンドとは。個性的なボーカリストにしてギタリスト、そして数々の名曲を作った才人ジョン・フォガティがこの映画の中で語る言葉は、バンドの芯の部分を理解する上で興味深い。ミシシッピ川を進む蒸気船から着想を得た名曲『プラウド・メアリー』が作られるまでの歩みや、独特のパワフルな歌唱法がいかにして生まれたかといったエピソードもふんだんに盛り込まれている。
そしてこの映画の一番の見どころは、人気絶頂の彼らが70年に初めて敢行した欧州ツアーの様子だ。4月14日に英ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行われた公演の模様がフルに収められている。50年以上も前とあって映像は素朴。それでも「お手並み拝見」的な空気だった観客席が、時間がたつにつれて熱くなっていく様子が分かる。あらゆる情報が今よりも乏しかった時代に、人々が音楽とどのようにして出会うかが見える。ステージ終了後、観客総立ちの拍手が15分続いたという逸話も残している。
CCRというバンド名で華々しく活躍したのはわずか4年ほど。しかし、下積みの時間は長かった。カリフォルニアの小さな町の中学校でジョン・フォガティとステュ・クック、ダグ・クリフォードの3人が「ブルー・ベルベッツ」と名乗るバンドを59年に結成したのが始まりで、後にジョンの兄のトムが加わった。ビートルズの米国進出をきっかけに「ブリティッシュ・インベイジョン」と呼ばれる大旋風が巻き起こるのは、その5年ほど後のことである。
同級生で始めたバンドはやがて全米一の人気バンドへと成長し、初の欧州ツアーのために大西洋を渡る。「世界一」のビートルズを生んだ英国で勝負に挑むために。しかしロンドン公演が行われる4日前に、衝撃的なニュースが飛び込んでくる―。
この映画の監督を務めたのは、ビートルズやジミ・ヘンドリックスのドキュメンタリーでグラミー賞を受賞しているボブ・スミートン。ロックが熱かった時代を、閃光(せんこう)のごとく走り抜けた名バンドの鼓動と時代の空気を捉えている。
※22日から東京・角川シネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷などで全国順次公開
(2023年9月15日掲載)
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