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虐殺から朝鮮人300人を救った警察署長、殺気立つ民衆前に命懸け◆関東大震災100年【news深掘り】

2023年09月02日08時30分

 朝鮮人が暴動を起こすー。関東大震災ではそんな流言が飛び交い、各地で日本人による朝鮮人虐殺が起きた。震源に近く、壊滅的被害を受けた横浜もしかりだ。その横浜で、殺気立つ民衆から朝鮮人約300人、中国人約70人をかくまった警察署長がいた。あれから100年。身を挺(てい)した行動は、韓国の若者の心も動かしている。(時事通信外信部編集委員 萩原大輔)※一部差別的な表現がありますが、当時の雰囲気を伝えるため、原則として原資料のまま引用しています

 【news深掘り】

「先に私を片付けろ」

 「関東大震災当時、流言飛語により激高した一部暴民が鶴見に住む朝鮮人を虐殺しようとする危機に際し、当時鶴見警察署長故大川常吉氏は死を賭してその非を強く戒め、三百余名の生命を救護した」。震災時に神奈川県警鶴見分署長だった大川常吉氏(1877~1940年)の墓がある横浜市鶴見区の東漸寺には、そう記された顕彰碑が立っている。在日朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の前身、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)鶴見委員会が53年3月に建てたものだ。

 長年、大川氏や横浜の朝鮮人虐殺について調べてきた神奈川県海老名市の研究家、後藤周さん(74)や警察などの資料によると、大川氏は大地震直後の1923年9月3日、うわさにあおられた「朝鮮人狩り」からかくまうため、分署内に朝鮮人らを保護。民衆約1000人が分署に押し掛け、引き渡しを要求したが、「鮮人に手を下すなら先に大川を片付けてからにしろ」「逃げたら腹を切っておわびをする」と突っぱねた。分署の警察官は交番勤務などを含め総勢わずか30人だった。

 大川氏は議会からも圧力を受けたという。群衆と朝鮮人の衝突を懸念した地元の有力町会議員らが、朝鮮人を東京などに追い出すよう要請し、4日の臨時町議会でも大川氏を追及したが、大川氏は戒厳令が発布されて治安が回復する見通しであることなどを挙げて拒否。地元の病院長で、当時町議として臨時町議会に出席した渡辺歌郎氏の回顧録「感要漫録」によると、「猛虎を不完全なおりに入れておくようなものだ」と県外追放を求めた町議に対し、大川氏はこう反論したという。

 「鮮人の反乱は全く根もなき流言飛語と断定する。彼らは食べるために働いており、反乱などのもくろみを起こすことは絶対ない。彼らが蜂起するようなことがあれば、私が命を賭して鎮圧する。県外に行くよう命じても、一度警察の手を離れればたちまち全員が虐殺されてしまう。署はあくまでも保護する」

流言は「横浜発」、「誤伝」の指摘も

 後藤さんによると、司法省(当時)の資料では、横浜で「朝鮮人暴動」などのうわさが発生し、三つのルートで東京に伝わったと分析されている。内務省の資料には、朝鮮人虐殺が最も多かったのは神奈川県と記録されているという。

 横浜市内では1日夜からうわさが拡散。2日には自警団が結成され、朝鮮人襲来に備えて武器を持つよう呼び掛けられたといい、70年刊行の「神奈川県警察史」は、1日午後に解放された横浜刑務所の囚人の一部が略奪行為を行い、「これが誤伝され、『囚人』がいつしか『鮮人』と変わったようだ」と指摘している。

 朝鮮人虐殺を伝える住民らの証言は多い。「感要漫録」も2日の出来事として、「大勢の若者が1人の鮮人を捕らえて(中略)押し飛ばしたり棍棒(こんぼう)でつくやら殴るやらの騒ぎ」を見たと記述。治療した患者が「来る途中の川の橋際に2人の鮮人が斬り殺されているのを見た」と語ったと記している。

 後藤さんは、当時の政府上層部が民衆の不満、不安の「ガス抜き」などの目的で主導的にうわさを扇動したという一部の主張には否定的だ。震災直後の横浜は通信・交通が遮断、孤立状態に陥り、県警の課長が中央に支援を要請するため徒歩で東京まで往復するほど。中央からの指示が届く状況ではなかったためだ。ただ、「警察官が朝鮮(人)が来たら殺して下さいと言ってきた」といった住民の証言が残っており、「現場の警察官がうわさを信じて扇動したり、一緒になって殺したりした面はある」という。

根深き問題は…

 集団のパニック心理が広がる中、大川氏はなぜ朝鮮人保護を貫けたのか。後藤氏は「すごい信念の下に生きていたわけではない。人として命を奪ってはいけない、命を守るのが警察の職務だという思いが強くあった」と分析する。工業地帯化が進んでいた鶴見には、朝鮮半島から建設作業員などとして働きに来ていた人が多くいたが、「大川氏は朝鮮人とも、雇っている親方衆とも日頃からコミュニケーションを取っており、信頼関係があった」という。「(大川氏には)うわさはうそだろうと判断できる当たり前の感覚があった」と話す。

 「むしろ根が深いのは、非道でもなく、普通の生活を送ってきた人が、危機の中で少数の人たちを血祭りに上げるようなことが起きてしまうということ。同じような条件が揃えば、今だって別の形で起こりうる」。後藤さんはそう警鐘を鳴らす。

「虐殺はなかった」に懸念、大川氏遺族

 大川氏の孫で横浜市戸塚区に住む豊さん(71)は1995年12月、大川署長の話を知ったソウルの病院長に招かれ、病院職員約200人の前であいさつをしたことがある。当時の韓国は、87年の民主化を経て市民運動が盛んになり、日本の植民地支配の責任を問う動きが激しくなっていた。「朝鮮人虐殺に当然悪い感情を持っているだろう。厳しいことを言われるのではないかと緊張した」と振り返る。病院職員を前に「関東大震災の時に日本人が朝鮮の方々にしたことについて、日本人として本当に申し訳ない」と語り、その後打ち解けることができたそうだ。

 現在、日韓の交流は飛躍的に拡大し、若い世代では歴史に対するわだかまりも少なくなっている。豊さんは「(私が訪れたころとは)全く別世界」と昨今の風潮を歓迎する一方、「日本人には、(朝鮮人虐殺自体が)なかったという人もいる」と、懸念する。

韓国でも共鳴、「一緒に未来を」

 大川氏の行動は美談として伝わるが、心を動かされた若者は韓国にもいる。ソウルの建国大大学院修士課程に在籍し、写真家としても活動する千昇煥さん(28)は、2017年に映画を通じて朝鮮人虐殺を知り、今年3~5月、約80日かけて関東1都6県、約70カ所を訪問。関東大震災にまつわる慰霊碑などを写真に収めた。

 東漸寺にある大川氏の顕彰碑と墓前でシャッターを切ったのは4月。「朝鮮人虐殺を初めて知ったときは憤り、日本に対する嫌悪、虚脱感を抱いた。その中で、大川氏の行動は人間愛を感じさせてくれた」と千さん。「困難な状況でも朝鮮人を救った人たちを思う時、互いに人間と人間として一緒に歩んでいければ、韓国と日本の関係にも進展があるのではないかと希望を持った」と語った。

 千さんは朝鮮人虐殺をテーマにした写真展をソウルで9月23日まで開催する。出身地である全羅北道・全州でも開く計画だ。大川氏の顕彰碑の写真も展示する。日本人の功績も取り上げることについて、「よく思わない韓国人もいるだろう」と不安を隠さないが、「怒りだけでなく、韓日が一緒に未来に進まなければいけないというメッセージを込めたかった。その意図を理解してくれる人もいる」と前を向いた。「日本人も美談だけ見るのではなく、朝鮮人虐殺自体を忘れてはいけない。韓国人は、一方の面だけでなく、ありのまま全体を見て判断すべきだ」と訴えている。

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