約10万5000人の死者・行方不明者を出した関東大震災から2023年9月1日で100年。被害の多くは地震そのものではなく火災が原因とされるが、なぜあれほど拡大したのか。今後想定される首都直下地震を前に、私たちが備えるべきことは何か。大手ゼネコンに勤務しながら研究を続け、「関東大震災研究の第一人者」とされる武村雅之・名古屋大減災連携研究センター特任教授(地震学)に話を聞いた。(時事通信社会部 安田剛史)
1992年に揺れの記録を発見
―当初、大手ゼネコン「鹿島」に勤務しながら研究をされてきました。
僕はもともと経歴が変で、東北大の地球物理学科を出てるんですよね。当時、地球物理学で博士号を取った人間がゼネコンに入ったのは初めてだったんです。最初は揺れの予測をやっていたんですが、1992年に訪れた岐阜地方気象台で関東地震の振り切れていない揺れの記録を発見した。当時、関東大震災の震源というのはよく分かっておらず、会社からも特に何も言われなかったので、あまり土木建築とは関係ない震源の研究をするようになりました。
とはいえ仕事中に論文を書いたり研究をしたりするのは無理なので、ほぼ休日を使ってやっていました。ですから、それ以来30年のうち前半15年は震源とか震度分布とかの話、後半15年は史料などを利用して石碑の調査や、特に帝都復興事業についていろいろ調べました。
―岐阜の気象台で記録を発見したときは。
震源は1970年代ごろにかなり分かってきたんですが、余震などの詳細はよく分かっていなかった。岐阜の記録を見たとき、「これは面白いな」と思いました。本震が振り切れていないだけではなく、直後の余震がはっきり記録されていました。実はその頃から体験談も調べていて、各地の図書館で郷土資料を片っ端からコピーして箇条書きにして、地域ごとに整理していました。岐阜の記録を見たときにまず思ったのは、「ああ、東京で3回揺れたっていうのはこういうことなんだ」ということでした。本震の3分半後と4分半後に強い余震があったんです。
今まで地震学者でそういうことをやった人は誰もいなかった。そういう体験談で裏付けを取らないと分からないし、逆に当時の人が言っていることの意味も分かるようになる。僕は基本的に文系人間なんです。だから人と違う研究ができたんだと思います。
被害拡大の原因は「昼時」と「強風」?
―関東大震災では、発生時刻が昼食の準備の時間だったこと、風が強かったことが火災を大きくした理由としてよく挙げられます。
関東大震災の震源は神奈川県から千葉県にかけてで、いわば神奈川県の地震なんです。神奈川県は震源の真上なので家がつぶれ、火災が起き、津波や土砂崩れもありましたが、これは起きるべくして起きた。ところが関東大震災の被害の7割は東京で、その原因は全て二次災害である火災。しかも、震源域から外れたところで大きな被害が出たのは東京だけです。そう考えると、昼時だとか風が強かったとかいうことだけが原因ではない。結局、東京はものすごく燃えやすい街だったということなんです。
元禄や安政の地震と比べてみると、格段に関東大震災の被害が大きい。じゃあ江戸時代とどこが違うかというと、武家屋敷と寺社地がなくなっている。明治になって政府が民間に土地を払い下げ、地盤の悪いところにたくさん工場を建て、工場で働く人たちが周囲に木造の家を建てていったが、道路はみんな行き止まり。大通りを一歩入ったらめちゃくちゃな街が当時の東京で、そこに地震が来た。だから、都市計画の間違いがそういう被害を生んだと推測できます。
―明治政府にはそういうまちづくりの意識がなかったのでしょうか。
都市の防災というのは、個々の建物の耐震化も大事ですが、それが建つ場所をどうするかで全然変わってきます。日本はそういう意識が伝統的に低くて、戦後もそう。唯一、関東大震災の復興の時だけが違っていて、それはやはり反省に立ったからなんです。そういう意味で、大震災からの復興計画は西洋の模倣といえば模倣ですけど、そういうものをきちっと取り入れてきちんとした街を作ろうとぶち上げた点は非常に大事です。そして、ちゃんと落としどころを考えたのが当時の井上準之助蔵相と大蔵省。何だかんだ言って当時で7億円レベルの予算を付けたのは井上と大蔵省の見識だと思います。
それと、震災直後に天皇が出した詔書に「一企業、一個人がもうかるようなことはしない」「復興は東京市民のためにある」ということが明確に書いてあります。これが今の再開発と全く違うところで、だから市民も一緒になってやろうとなった。「この際だから」という言葉が非常にはやり、この際だから世界に誇れる品格のある首都にしようという話が出てくる。結局その時が一番素晴らしい東京だったので、タイムスリップできるなら昭和の初めに戻りたいくらい。ところがなぜかそれがその後続いていかない。1932年に東京が15区から35区に広がって今の23区の広さになり、一部の先見の明のあったところは区画整理をしてちゃんとした住宅街になりましたが、ほかはもうめちゃくちゃ。そこが今、木造住宅密集地域になって困ったことになっているわけです。
防災意識、共助の気持ちは「誇りから」
―著書に出てくる「現在なぜ首都直下地震におびえなければいけないのか」という言葉について聞かせてください。
1964年の東京五輪の際、効率と経済を優先する街にしようとしたんです。もともと用地買収しながら進めるはずだった首都高速道路の計画を、手っ取り早くやるために都が持っていた水路と公園をみんなつぶしてしまいました。日本橋の上の高速道路もそうですが、東京の高速道路は低くて圧迫感があります。イベント便乗型でやるとめちゃくちゃなことになるという例です。
ところがこの64年東京五輪が成功例として語られるものだから、どこもかしこも五輪や万博をやると言い出します。きちんとした都市計画に基づいてやるならいいですが、なかなかそうはいきません。だから行き当たりばったりになって、負の遺産になってしまうのです。2021年の東京五輪もそうで、もうからないといけないからタワーマンションを建てますが、埋め立て地にあんなに人口を集中させていいのかという議論が何もない。
住民が街を誇りに思い、みんなで守ろうと思う気持ちがベースにあるから、防災や共助の気持ちが育まれます。それなしに防災意識の向上といっても無理ですよ。容積率を緩和して高層ビルを林立させれば通勤する人が増えるに決まっているし、そうすれば駅が混みます。路線を延伸させれば長時間通勤が増え、何か起こったら帰宅困難者になるし、エレベーターに閉じ込められたら助けてもらえず死ぬかもしれません。結局市民が全部負の遺産のツケを払うことになります。
今、考えるべきこととは
―今後行政や住民はどういうことを考えていくべきなのでしょうか。
まず、行政は今までの街の歩みをきちんと検証すべきだと思います。特に当事者である東京都ですね。そして住民もまちづくりにもっと興味を持ち、どういう街であるべきかを、もっと自分で考えるべきです。
もう一つは「都会人とは何か?」ということ。関東大震災であそこまで死者を出してしまった一番大きな原因は、家財道具を持ち出したことです。持ち出したら道が渋滞して、荷物が燃えて他の人も逃げられなくなる、ということを考えなかった人が持ち出した。江戸時代から火災の時は家財道具を持ち出してはいけないというルールがありました。要するに、都会に住むということは、より他の人のことを考えなくてはいけない。真の都会人は江戸っ子です。人口が密集すればするほど隣の人をおもんぱからなくてはいけない。
―また地震が起きたらデマや流言が広まる可能性もあります。
朝鮮人の虐殺を含めてああいうことがあったということをまずきちんと知り、自分が加害者にならないという意識を持つことです。それから、不確定な情報を拡散させないこと。地震が起こるのが分かっていたわけじゃないんだから、あっちでもこっちでも朝鮮人が井戸に毒を入れたなんてあるわけないと冷静に考えれば分かるはずです。冷静な人は身を挺(てい)して朝鮮人を守り、それに感謝する碑も各地にあります。あったことは隠さず、歴史としてきちんと受け止め、その上で自分が加害者にならないという強い意識を持つべきだと思います。
武村雅之(たけむら・まさゆき) 1952年京都府生まれ。専門は地震学、地震工学。鹿島建設を経て2012年から名古屋大減災連携研究センター。著書に「関東大震災がつくった東京」など。