音楽評論家・柴田龍一
【目次】
◇佐藤ひでこ(ピアノ)『De Profundis』
◇松本和将(ピアノ)『フランツ・リスト~聖なる悪魔の調べ』
◇紫園香(フルート)『J.S.バッハからの贈りもの~紫園香オールバッハ作品集~』
【今月のクラシック】バックナンバー

アリス=紗良・オット『ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番、エリーゼのために 他』ユニバーサル
最近のアリス=紗良は、個性にさらに磨きを掛けて、それを大胆に前面に押し出した演奏を聴かせるようになった。言い換えるならば、彼女は、ほぼ完全に自分の芸風を確立し、それによって聴き手を魅了することができる境地に到達したのである。彼女はある時期から、タッチがどんどん美しくなり、その硬質で透明度の高いタッチは、非常に都会的で洗練された表現を追求する彼女の美学とも相まって、このピアニストならではのクリスタルで魅惑的なピアニズムを形成するまでに至ったのである。
ベートーヴェンの作品を収めたこのアルバムは、そうした最近の彼女の魅力を満載した1枚であり、そこでは、真のスター足るにふさわしい彼女のステータスが確立されている様相をはっきりと感じ取ることができた。彼女は、「ベートーヴェンは、コントラストとバランスのマスターです」に始まる言葉をブックレットの中で述べているが、一見武骨で男性的なイメージが強いベートーヴェンの作品を手掛けた彼女は、そこで記述した言葉からも想像されるような思索性を十二分に盛り込みながら、それをそのスタイリッシュなピアニズムと違和感なく一体化させることによって、実にモダンな新しいベートーヴェン演奏を実現させている。これは、ベートーヴェンの音楽に秘められた意外な一面を大きくクローズアップさせた演奏であると同時に、現代人好みの演奏と形容することも妥当であろう。
前置きが長くなってしまったが、収められている演奏は、どれもが彼女の持ち味と意図が結実した出来であると考えて良いだろう。程よいバランス感覚の中に巧みなメリハリもが盛り込まれたカリーナ・カネラキスらのバックアップがアリス=紗良を引き立てている『協奏曲第1番』は、中でも筆者の印象に残る妙演であった。そして、彼女の深い音楽的意図は、バガテルなどの小品でもそこに内在するベートーヴェンの音楽のエキスを見事に引き出しているのである。(ユニバーサル)
佐藤ひでこ(ピアノ)『De Profundis』

佐藤ひでこ『De Profundis』フォンテック
佐藤ひでこは、東京音大を経てロシア、ポーランド、カナダに留学し、国際コンクールでも成果を挙げたピアニストである。帰国後にデビューを飾った直後、ピアノジストニアで演奏活動を停止に追い込まれたものの、自身が開発した鍵盤リハビリ治療法のみで完全に元の機能を取り戻し、演奏活動を再開するまでに至った。現在の彼女は、順天堂大医学研究科の修士課程に在籍しながら、コンサートや録音の活動を続けている。<深き淵>を意味するタイトルのこのアルバムは、そうした彼女のデビュー盤であり、そこでは、20年以上の闘病が彼女に大きな精神的成長をもたらし、独自の非常に深い世界を切り開いたことが如実に示されていると言って良いだろう。
繊細で透明度の高いピアニズムの持ち主である彼女は、同時にすこぶるナイーブで感じやすい感性を有しており、自分が感じ取ったその純度の高い音楽を物おじせずに堂々と表現して、筆者に深い感銘を与えてくれた。ショパンの2曲(『舟歌』『ノクターン第16番』)は、とにかく驚くほどキメの細かい演奏であって、そのセンシティブな表現には、ショパンの音楽を深く追体験した者のみに可能な人間的な感情の機微が随所に息づいていた。そして、シューベルト『ピアノ・ソナタ第13番』では、その純粋無垢(むく)な叙情的表現の質に特に見るべきものがあり、これほどまで清らかに歌い上げられたこのソナタの演奏は、筆者がこれまでに接したことがなく、そこで繰り広げられている天国的な世界は、あらゆる聴き手を引き付けるアピールを放っていた。
しかし、このアルバムの白眉は、何と言っても最後のベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第31番』であると指摘されなければならない。最晩年の傑作の一つとして誉れ高いこの作品は、確かに楽聖の精神美の極致を象徴する名作の一つに他ならないが、佐藤のアプローチは、それを筆者の想像を上回るほどまでに掘り下げており、特にフィナーレなどは、身震いするほどの神々しさを感じさせた。(フォンテック)
松本和将(ピアノ)『フランツ・リスト~聖なる悪魔の調べ』

松本和将『フランツ・リスト~聖なる悪魔の調べ』オクタヴィア・レコード
松本和将は、その演奏からにじみ出る何とも言えない人間性もしくは人間臭さといった要素がたまらない魅力を感じさせるピアニストである。彼は、非常に誠実な姿勢で作品に対峙(たいじ)し、作品と自己が一体化した状態の中で作曲者の魂を感じ取り、それを十二分にそしゃくしてあくまでも自分自身の言葉で表現することができる不可思議な個性の持ち主である。彼の演奏に接した筆者は、常に彼の人間性の生々しい営みを感じ取り、言葉では表現しがたい独特の感動と満足感を覚えていた。そして、自己の個性にさらに磨きをかけ、独自のヒューマニスティックな芸風を確立している最近の彼の演奏は、理屈を超えたアピールを放つようになり、私たちに人間のぬくもりの中で音楽作品を味わうことができる心温まる感動を与えてくれるのである。
一方、リストの音楽は、究極の純潔と人間的で深い精神世界を違和感なく共存させ、それによって名人芸と精神性を同居させることに成功したまれなる一例に他ならない。このアルバムには、ブックレットの冒頭に「聖なる悪魔の調べ」と銘打たれた松本自身が執筆したリストと自分との関係が掲載されているが、それは、なかなかの力作であり、強く筆者に訴えかけてきた。そして、そこに示された彼の思いは、見事にこの演奏に結実している。
ここでは、魅惑的な通俗名曲も含んだ趣味の良いプログラムが組まれているが、リストの音楽のイデアは、それを深く追体験した松本のアプローチとも相まって、松本の言葉でその核心が語り継がれていると考えてよいだろう。これを聴いた筆者は、松本の演奏を通じてリストの音楽の真価に触れることができたという手応えを体感することができた。リストの音楽の意味と魅力をしっかりと味わわせてくれた松本に対して、感謝の意を表したい。(オクタヴィア・レコード)
紫園香(フルート)『J.S.バッハからの贈りもの~紫園香オールバッハ作品集~』

『J.S.バッハからの贈りもの~紫園香オールバッハ作品集~』ナミ・レコード
紫園香は、マルセル・モイーズの直弟子であり、巨匠が他界するまでの間、長く彼の奏法や音楽を徹底的に吸収し、自己の芸風を築き上げたフルーティストである。わが国でも最高ランクの名手であるが、数十年もの長い間、国際的な演奏活動に明け暮れ、世界中津々浦々のステージに立っていたために日本ではその存在が意外に知られておらず、その実力がまだ正当に認識されていないきらいがあるのが残念だ。彼女の演奏は、あくまでも高度な正統性に裏付けられているが、その自然体で誇張のない表現は、絶対に崩れを見せない完成されたテクニックの他、上品で純度の高い音色の魅力がまさに限りなく、さらにその音色は、音域全体で少しのムラもない安定感を保っている。
そうした彼女は、藤井一興(チェンバロ)をはじめとするわが国最高峰の名手たちの共演を得て、バッハの『トリオ・ソナタ』を含むソナタ5曲のアルバムを発表した。この録音で把握されている極めてバランスの良い音像は、オーディオ・ファンにとっても特別な価値を持つほどであろうが、神業に近いとさえも言える藤井の絶妙なチェンバロの他、表現のツボを完璧に心得た北本秀樹(チェロ)の心憎い通奏低音など、共演者たちが紫園の自在で闊達(かったつ)なフルートを見事に引き立てており、どんな聴き手も捉えて離すことがない。
ちなみに、筆者が調査した限りでは、彼女はアラブ圏とカリブ海方面以外は、地球上ほとんどの地域で演奏を行っており、その足跡の広さは、日本人演奏家の中でも恐らく最高と言えるものと考えられる。そのような彼女は、ここ数年前から日本でもコンサートと録音の双方でかなり精力的な活動を行うようになったが、それは、ファンにとってはとてもありがたいこと言えるだろう。自由自在でセンスの良い彼女のフルートには、筆者もすっかり魅了されてしまった。(ナミ・レコード)
(2023年11月17日掲載)