将来、後悔しないために―。フィギュアスケートのアイスダンスで2022年の北京冬季五輪に出場した小松原美里(31)=倉敷ク=が、今年7月に卵子を凍結保存した。卵子凍結は、がん患者らが治療によって生殖機能を損なわないように実施するのが主流だが、健康な女性が将来の妊娠に備えて行うケースも年々増えているという。小松原の拠点はカナダのモントリオールで、6月末に横浜市内で行われたアイスショーに出演するため一時帰国。その機会を生かした。北京五輪の団体銅メダルメンバーでもあるトップアスリートが卵子凍結後、時事通信のインタビューに応じ、目的や心境などについて語った。(時事通信運動部 三浦早貴)
北京五輪の前、夫でアイスダンスのパートナーでもある米国出身の尊(32)=ティム・コレト、日本国籍取得=と一緒に、卵子凍結を巡る記事を目にした。2人が五輪代表に決まる前の時期だった。そこには、スノーボードのパラレル大回転で14年ソチ五輪銀メダルなどの輝かしい実績を誇る竹内智香(広島ガス)が、今後のキャリアを考え始めたタイミングで卵子凍結を行ったと紹介されていた。年齢を重ねても、そうした形で出産の選択肢を残す可能性がある。それを初めて知り、尊と話し合って決断したという。
「北京五輪に行けなかったらどうしようか、選手を辞めるのか、続けるのか。五輪に出られないとしても、技術を高めたいし、まだスケートでやりたいことがある。そういう話をティムとした。(26年ミラノ・コルティナダンペッツォ五輪に向けて)この先も滑ることを考えると、34歳になる。これは絶対にやっておきたいと思った」
「(尊は)『卵子凍結って何? なんで必要なの?』と言っていたけど、丁寧に説明したら『美里が必要だと思うならするべきだ』と応援してくれた」
今が最適のタイミング
施術の前に、卵巣内に残されている卵胞の数を反映する抗ミュラー管ホルモン(AMH)の検査を受けた。すると同年代の平均と比べて、数値が極めて低いことが判明。ミラノ・コルティナダンペッツォ五輪後では、自然妊娠が難しくなっている可能性もあった。自身にとって、卵子凍結を行う最適のタイミングと捉えている。
「もし後でやることにしていたら、きっと後悔していた。(子どもを)産みたいのかどうかは分からないとしても、もう(後が)ない、という状態と、まだ何かできる、というのはだいぶ違うのかなと思う」
卵子の採取までには、卵胞発育を促す注射や排卵をコントロールする投薬が必要になる。同時期に出演していたアイスショーに影響が出ないように医師とも相談しながら進めた。アスリートが施術を行う上では気をつける事項が多い。美里を担当した六本木レディースクリニックの小松保則院長は「ピルなどで月経調整をしている方も多く、競技内容や大会日程によっては採卵の時期を調整したり、ドーピング等の規定を考慮して使用可能な薬剤を考えたりなどの柔軟な対応が必要」と説明する。
芽生えた感情、子どもに「会ってみたい」
将来的に出産を選択するか、はっきりと決めていたわけではない。そんな美里に、新たに芽生えた感情があった。クリニックで卵子の凍結作業を見学させてもらった時だ。
「凍結するまでにいろんな人が手伝ってくださっていて、親戚が増えているような気分になった。(子どもに)会ってみたい、会ってあげたいなって、すごく思った。その気持ちは新しかった」
保存した卵子の写真を見せてもらい、「かわいい」と笑みを浮かべた。
美里は、自身のインスタグラムを通して施術の様子を発信している。卵子凍結について調べ始めた時、最も困ったのが情報の少なさだ。特にアスリートに関しては、ほぼ体験談がなかった。
「竹内さんの記事を読んで、こういうのがあるんだ、と気付いた感じ。でも、(他の事例など)いろいろ調べても全然出てこないから、すごく困って、どうしようと。だから、自分の経験を情報の一つとして、シェアした方がいいなと思った。結構プライベートな内容だけど、シェアしていこうと決めた」
小松院長も「より正確な認識と現在のご自身の状況に興味を持っていただくきっかけになる。卵子凍結だけでなく、不妊治療全般を理解して、後悔しないために何ができるかを考えていただける機会が増えると思う」と期待する。
心配を削り、競技に集中できる
美里の卵子凍結に対する反応は、さまざまだった。賛否両論が国内外から寄せられ、プライベートな経験をなぜ公表するのか、との指摘もあった。否定的な意見は、卵子凍結に関する情報不足から生じたものが多いという。悩める女性たちのためにも、今後も情報共有を続けていくつもりだ。
「当初は女性アスリートや(フィギュアスケートの)後輩たちにとって、自分がそうだったように情報が少ないよりは、もっとあった方がいいなと思った。でも、どんどんシェアするにあたって、アスリートではない女性も、皆さん大変でしっかりと闘っている人がいっぱいいるのに気づいた」
競技に対する向き合い方にも、確かな変化があったようだ。ミラノ・コルティナダンペッツォ五輪の開催地、イタリアは美里と尊が出会った場所。その五輪イヤーは、自身がスケートを始めて25年の節目になる。心身共に、前向きな準備が整いつつある。
「競技に集中するために、一歩を踏み出したところがすごくある。それが楽しみ。その時(25年の節目)に、自分がいかに自分らしく、解放したスケートができるかを模索している。より自分らしい選択(卵子凍結)を今回したし、自信を持って、心配を削って削って、より安心したスケートができるようになるかなと思っている」
小松原 美里(こまつばら・みさと) 1992年7月28日生まれの31歳。岡山県出身。岡山学芸館高から法大通信教育部へ。アイスダンスで2018年から全日本選手権4連覇。19年と21年の世界選手権出場。16年から米国出身のティム・コレト(20年に日本国籍取得。日本名は尊=たける)と組み、17年に結婚した。五輪は22年北京大会に初出場し、アイスダンス22位、団体で銅メダルメンバーになった。