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「聞こえない人基準」で地域の足に◆ろう者のバス運転手が目指す次の目的地【時事ドットコム取材班】

2023年08月24日10時00分

 スマートフォンの音声認識アプリに「時事通信の長田です」と吹き込み、文字起しされた言葉が並ぶ画面を見せると、ほほ笑みながらうなずいた。「本日はよろしくお願いします」と伝えると、ノートパソコンのチャット画面に「こちらこそ、暑い中お越しいただきありがとうございます」と打ち込む。松山建也さん(30)は「感音性難聴」を抱え、生まれたときから耳がほとんど聞こえない。2017年、全国初の「ろう者のバス運転手」となったが、先ごろ退社し、次の目標へ向かっているという。(時事ドットコム編集部 長田陸

 【時事コム取材班】

マイホームに憧れ、運転の道へ

 ろう学校を卒業した松山さんは、障害者を積極的に雇用している大手銀行の子会社に入社、データ入力などの事務を担当した。夢はマイホームを購入すること。だが、不動産業者に相談したところ、「今の収入で購入は難しい」と、つれない返事だった。

 松山さんは、補聴器を着けても人の言葉を聞き取るのは難しい。ただ、車のクラクションや救急車のサイレンといった環境音は認識できる。普通免許を所持し、ドライブ好きだった松山さんは、一念発起して中型免許を取り、収入アップが見込めたトラック運転手の求人に応募。埼玉県戸田市の運送会社「グンリック」に採用された。

筆談、メール駆使、手話学ぶ取引先も

 運転手の業務は、積み荷を運ぶだけではない。卸先や荷積み先では、取引先とコミュニケーションを取る必要がある。入社当時を振り返ったグンリックの本社営業所長、岩井一さんは「最初は不安もありました」と語ったが、松山さんによると、筆談やメールで問題なくやりとりし、取引先の中には、松山さんのために手話を勉強してくれる人もいた。岩井さんは「どこの現場でも評判が良かった。『松山くん、良いよ』と仕事相手から私がほめてもらうこともあった」と話す。

 そんな松山さんは、勤務を続けるかたわら、大型免許を取得。10トントラックを操るようになり、入社2年目には念願のマイホームを手に入れることができた。

 会社に対し、運転手の人材不足に悩んでいた会社に「ろう者を増やしてはどうか」と提案したこともあったという。松山さん自身もSNSで募集し、半年で5人のろう者運転手が誕生。その後も応募があり、同社では今、聴覚に障害を持つ10人がトラックのハンドルを握っている。

ふいに訪れた法改正

 松山さんに転機が訪れたのは2016年4月。改正道交法が施行され、補聴器を着けた状態で10メートル先のクラクション(90デシベル)が聞こえれば、乗客を乗せて走行するために必要な「第2種免許」の取得が認められることになった。

 だが、施行後1年以上がたっても、バス運転手になるろう者が現れない。「アメリカや台湾では運転手として活躍するろう者がいた。日本はまだまだ遅れている」。そう感じた松山さんは、「ならば自分がトラック運転手の経験を生かしてバス業界にチャレンジしよう。バス運転手を目指すろう者のためにも道を開こう」と、バス会社5社の求人に応募した。

 「バス運転手がハンドルをさばく姿を見て、かっこいいと思った」と幼少期を振り返った松山さん。しかし、唯一面接に進んだ1社からも「不採用」の連絡があった。理由は、トラック運転手と違い、バス運転手になるにはより高い「言葉の壁」を乗り越えなくてはならないため。松山さんは「どこの会社も2、3台のバスが連なって運行することが多く、運転手同士で無線のやりとりが不可欠。音声でのコミュニケーションができないと厳しいと判断された」と語る。

まさかの再面接

 失意に沈んでいた中、ひと月前に面接で不採用となった「東京バス」(東京都北区)から「再面接をしたい」と連絡があった。社長が「ワンマン運行は難しくても、乗務員がカバーできるツーマン運行バスなら出来るのではないか」と考え直したそうだ。この再面接で松山さんの採用が決まり、2017年10月、ろう者として全国初のバス運転手が誕生した。

 「本日担当の運転士は補聴器を使用して業務しています」。松山さん担当の羽田空港発着リムジンバスや、東京ー名古屋間の高速バス車内には、こうした表示が掲示された。乗客に降車場所を聞く必要があるときは、希望する場所を指さしてもらえる案内ボードを使用。同社運行管理部の課長、三浦寛記さんによると、耳が不自由な運転手を不安がる乗客もいないわけではなかったが、クレームを受けたことはないそうだ。松山さんによると、「問題なく運転していたので、ろう者とは思わなかった」「安心して乗っていられた」といった声が寄せられたという。

「聞こえない人基準」のバス会社を

 憧れのバスでハンドルを握ることができた松山さんだったが、気掛かりなことがあった。せっかく道交法が改正されたのに、バス運転手として働くろう者がなかなか増えないー。理由はある。安全のため、運転手によるバス内へのスマートフォン持ち込みを制限するバス会社が多く、音声認識アプリが使いにくいことや、業務連絡などで無線でのやりとりが欠かせない、といった事情だ。

 「バス業界は聞こえる人が当たり前の世界になっている」。松山さんは、自ら、ろう者でも働きやすいバス会社設立しようと決意し、23年5月、東京バスを退職した。目指しているのは「聞こえない人を基準にした路線バス会社」。これまでの経験から、ろう者でも1人で安全に運転ができるよう、バスには字幕表示モニターや音声認識アプリといった運転支援機器を充実させる予定だ。

 あの日、再面接を決めた社長に考えを伝えたところ、「応援したい」と後押ししてもらえたという。交通空白地域といった社会課題の解消につなげたい狙いもあり、運行を想定しているのは「バスが少なかったり、走っていなかったりするエリア」。既に地元からの要望も聞き、ろう学校や公園、商業施設などを通る路線を検討している。

「応援に応えたい」

 目下の課題は資金調達だ。中古路線バス3台の購入費など、会社設立に必要な資金はおよそ5000万円。6月にはクラウドファンディングを実施し、195人から計約290万円が集まった。今後は金融公庫からの融資や、投資家からの出資も模索していくという。

 「壁は厚いが、ろう者でバス運転手になりたい人やバスが必要な地域の人のためにも会社設立に向けて努めていきたい」と力を込めた松山さん。取材の最後、熱意の根源を尋ねると、ほほ笑んでキーボードをたたいた。「障害を抱えながらもトラック運転手やバス運転手になりたい人たちの夢を叶えたい気持ちがある。バス運転手になってから多くの人に応援をしてもらっており、それに応えたいから」

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