会員限定記事会員限定記事

キッコーマンに見るイノベーションの本質 企業の「決断の時」とは?【江上剛コラム】

2023年08月17日11時00分

作家・江上剛

 今年6月8、9日の2日間にわたって米国のウィスコンシン州レイク・ジェネバにおいて、キッコーマンの米国生産拠点キッコーマン・フーズ社の50周年を祝う「日米食品流通シンポジウム」と「日米経済カンファレンス」が華々しく開催された。

 それぞれであいさつに立った名誉会長である茂木友三郎氏は、多くの人々の支援がなければ、今日の発展はなかったと感謝の意を表した。茂木氏は米国進出の立役者であり、喜びも感慨もひとしおだったことだろう。

 さて、キッコーマンといえば、私たち日本人にはなじみの深い醤油メーカーである。その名前を知らない人は、まずいないだろうと思われる。醤油というのは、日本の食卓や料理に欠かすことができない、ザ・ニッポンとでも評すべき代表的な調味料である。

 日本には、醤油を醸造する会社が1100ほどはあると言われている。いまだに各地域のローカルな味を維持している。

 「わが郷土の醤油はこんな味だ、これ以外は醤油ではない」などと、こだわりのある人もいるに違いない。100年、200年、否、それ以上の長きにわたって地域の味を守り続けてきたのが日本の醤油メーカーである。従って、醤油メーカーは地域を代表する老舗企業であることがほとんどである。

 ところがキッコーマンは、それらのローカル企業と一線を画する。同社は日本を代表するグローバルカンパニーなのである。

 「えっ、ソニーやトヨタと同じグローバル企業なのか」と驚かれた人もいるに違いない。キッコーマンはグローバル企業であり、ある意味ではソニーやトヨタよりもグローバル企業の名にふさわしいと言えるだろう。キッコーマンの歴史を振り返ってみよう。

子規が名指し

 今から約360年前の1661(寛文元)年に現在の千葉県野田市で19代高梨兵左衛門が醤油製造を始めた。

 5代茂木七左衛門が醤油製造を始めたのが1766(明和3)年で、両家は姻戚関係となった。茂木家は分家を繰り返し、1917(大正6)年になり、茂木六家と高梨家、流山の堀切家が合同で「野田醤油株式会社」を興し、創立時に200以上もあった商標を昭和になって茂木佐平治家の「亀甲萬(キッコーマン)」に統一した。

 東京オリンピックがあった1964(昭和39)年に商標を社名にして「キッコーマン醤油」となり、「キッコーマン」を経て、現在の持ち株会社「キッコーマン」となった。

 以上、「国境は越えるためにある」(茂木友三郎著、日本経済新聞出版社刊)を参考にした。まさに敬服に値する醤油一筋の連綿と続く企業の歴史である。

 野田が醤油の一大産地となったのは、原料となる大豆や小麦が豊富に手に入ったからと言われているが、江戸時代は、関西からの醤油が最も人気が高く、上等とされていた。

 関西から大消費地である江戸に運ばれてくる商品は「下りもの」と言われ、それに比べ、関東で製造されるものは評価が低く、「下らないもの」と言われ、それが「下らない」という言葉の語源になったという。

 しかし、茂木家などの野田の醸造家たちは、創意工夫を重ね、野田の醤油の評価を高めていく。

 俳人正岡子規の「病牀六尺」(岩波文庫)にこんな記述がある。「余ら関西に生まれたるものの目を以て関東の田舎を見るに万事において関東の進歩遅きを見る。ただ関東の方著しく勝れりと思ふもの二あり。曰く醤油。曰く味噌。下総の名物は成田の不動、佐倉宗五郎、野田の亀甲萬(醤油)」

 病気のため、寝たきりだった子規は食べ物に執着していた。それが大きな楽しみだったのだ。その彼が、野田の亀甲萬を名指しで美味と褒めたのである。子規がこれを書いたのは1902(明治35)年5月13日のことである。子規は、この4カ月後に亡くなるのである。

 亀甲萬、すなわちキッコーマンは、子規にとっては日本で一番美味い醤油だったのだ。子規の記述からも、明治時代には野田のローカル醤油であるキッコーマンが、日本中で好まれるスタンダードな醤油になっていたことが分かるのである。

1868年、米初輸出

 日本の醤油は、江戸時代から東南アジアや欧州に輸出されていて、18世紀の中ごろに発行されたフランスの「百科全書」には「SOUI(しょうゆ)」の項があり、肉と非常に相性がいいと記載されていると、キッコーマンのホームページにはある。かなり早くから海外に輸出されていたのだ。

 「キッコーマンのグローバル経営―日本の食文化を世界に」(茂木友三郎著、生産性出版刊)によると、キッコーマン醤油が米国に初めて輸出されたのは1868(明治元)年であるという。ところが、1941(昭和16)年の太平洋戦争の勃発で、米国、欧州への醤油の輸出はストップしてしまった。しかし、戦時中もキッコーマンは米国に醤油を運び入れた。それは、収容所に抑留された日系人たちが国際赤十字を通じて醤油を送ってくれるよう要請したからだ。赤十字によって収容所に運び入れられたキッコーマン醤油を神のようにあがめる日系人の姿を描いた絵があるが、苦しい収容所での生活に耐えるためには醤油はどうしても必要なものだったのだ。

 このように、キッコーマンは早くから海外に目を向けていたのだが、戦後もその姿勢は変わらなかった。戦後の経済成長期にもかかわらず、いずれ到来する人口減少時代を見据えて米国に積極的に輸出をするのである。

 1957(昭和32)年にはサンフランシスコにキッコーマン・インターナショナルを設立し、アメリカ市場の開拓に本格的に乗り出す。茂木氏は1958年にコロンビア大学経営大学院に留学する。学生アルバイトとして、シカゴでキッコーマンの醤油販売のデモンストレーションを経験したという。

 シンポジウムやカンファレンスに先立つ日米メディアとの記者会見で茂木氏は、その頃の経験を語った。

 「醤油のグローバルな可能性についてそんなに信じていませんでした。しかし、デモンストレーションで、肉を焼き、醤油をつけてアメリカ人に振る舞うと、みんな美味しい、美味しいと喜んで、醤油を買ってくれるのです。その時、私は醤油はいけるぞって確信しました」

 茂木氏は醤油メーカーの御曹司であるが、それほど醤油の可能性を信じていなかったとは驚きだが、戦後間もない時期であり、敗戦国日本の醤油という調味料がアメリカ人に受け入れられると、本気で信じた人はそれほど多くはないだろう。醤油という調味料を米国の、そして世界の調味料にするという夢を茂木氏は留学中に抱いたのだ。

 これは私の勝手な想像だが、戦争で米国に完膚無きまでに敗北した日本ではあるが、醤油という日本の食文化は決して負けてはいないぞ、という強い自負心もあったのではないだろうか。

 そして、茂木氏は醤油を真にグローバルな調味料にするためには米国で製造するべきだとの考えに至るのである。1971(昭和46)年に36歳の若き企画マン茂木氏は、米国に工場を作る案を取締役会に提出する。

 「3回目でようやくゴー・サインが出ました」

 茂木氏は記者に向かって、往時を懐かしむような笑みを浮かべて言った。当時のキッコーマンの資本金は36億円だったが、茂木氏が提案した投資額は40億円である。

米出荷量、30倍

 1971(昭和46)年はどんな年だったのだろうか? 佐藤栄作首相の下、沖縄返還が調印され、沖縄は翌72(昭和47)年に日本復帰となる。糸と縄を交換したと言われ、対米繊維輸出自主規制が発表された。私が勤務していた第一勧業銀行も、この年に発足した。

 この後、日中国交回復などがあるが、日本は戦後の復興をひた走っていた頃である。まだまだ国家の経済基盤が盤石ではなかっただろう。その頃に資本金以上の対米投資をしようというのだから、茂木氏の提案に対して取締役会が逡巡したのも理解できる。

 これだけの巨額投資に失敗すれば、キッコーマンという老舗企業に壊滅的な経営危機が訪れるかもしれない。

 こんなリスクを負わなくても経営には問題ない。日本経済は成長している。まだまだ醤油の国内需要はある。もう少し状況を見極めるか、投資額を少なくしてもいいのではないか。取締役たちが悩んだのは当然のことだろう。

 しかし、キッコーマンは投資を決断し、ウィスコンシン州のウォルワースに工場を建設し、操業を開始した。1973(昭和48)年のことである。あれから50年。この投資は見事に成功し、現在の出荷量は製造初年度の30倍にもなったという。

 そして、何よりもアメリカ人が醤油を日本の調味料ではなく、アメリカ人の調味料として受け入れたのである。キッコーマンは米国における醤油の代名詞となった。この成功を契機に、キッコーマンは世界に工場を設立し、今やキッコーマン醤油はグローバルな調味料となったのである。

 あるキッコーマン関係者は「もし米国進出をしていなければ、現在のキッコーマンの姿は全く違っていただろう」と言った。

 その通りだろう。醤油は現在も日本のローカルな調味料であったかもしれない。

なぜ決断できたのか

 キッコーマンが米国に工場を造った当時、米国には安い化学醤油があった。キッコーマンのように天然由来の醸造ではなく、アミノ酸に香料などを添加して化学的に作った醤油とも言えない醤油だった。ただ安い。キッコーマンの醤油は高い。しかし、醸造で造られ、食材の味を引き出し、香りも豊かであるという製品の魅力が米国民に浸透したのである。

 実際、私は多くの米国のスーパーを取材したが、キッコーマン醤油を置いていないところは皆無であった。

 日本に食文化があるように米国にも食文化がある。それぞれの国民の味覚は民族性そのものである。その味覚の中に醤油の味を浸透させたことをイノベーションと言わずして、何をイノベーションと言うのだろう。

 日米食品流通シンポジウムの基調講演で早稲田大学名誉教授内田和成氏は「イノベーションとは行動変容である」と言った。単に新しい物を発明したのではなく、醤油という日本の調味料を米国の調味料に「行動変容」させてしまったキッコーマンは、ソニーのウォークマンに匹敵するイノベーション企業であると、内田氏は評価する。今やキッコーマンの売り上げや利益は海外の方が多いのである。

 私は、どうしても茂木氏に聞きたいことがあった。それで記者会見で次のようなことを質問した。

 「日本の食文化を米国に浸透させ、醤油はグローバルな調味料になったわけですが、成功するか、失敗するか分からない、資本金を上回るというチャレンジングな投資をどうしてキッコーマンは決断できたのでしょうか。イノベーションはあくまで結果であり、その前に決断があります。多くの日本企業はリスクを取ることを恐れて決断できず、失われた30年を過ごしてしまいました。キッコーマンがなぜ決断できたのか、教えてほしい」と。

 ある人は、サラリーマン経営者はリスクのある決断ができないが、オーナー経営者だから決断できたのだと、したり顔で言う。

 しかし、それは間違っているだろう。経営者が今年と同じ経営をしていたら、企業は、じり貧になるだけである。新しいことにチャレンジし、脱皮を繰り返してこそ企業の発展がある。その秘密を知りたいと思ったのだ。

 茂木氏は「キッコーマンという会社は、決断するべき時には決断するのです。約百年前にも大きな決断をしました」と淡々と答えた。それは1917(大正6)年の茂木六家、高梨家、堀切家が合同で「野田醤油株式会社」を設立したことだった。

 私は茂木氏の答えを聞き、「なるほど」と合点が言った。

 企業には歴史があるということなのである。

 キッコーマンの当時の経営者は、企業の歴史を顧みて、「決断の時」であると合意したのだろう。何事も歴史を踏まえて決断すれば誤ることは少ないのかもしれない。それだけキッコーマンという企業には、歴史の教訓が積み重なっていたのだろう。それには失敗も成功もあったに違いないが、ドイツの宰相ビスマルクの言葉通り「賢者は歴史に学ぶ」である。

「焦るな。短期の成果を望むな」

 今、日本経済はコロナ禍からの回復期待で、株価も上昇し、活況に満ちているように見える。しかし、浮かれてはいけない。浮かれていたらバブル時代の二の舞になるだけである。

 キッコーマンのように、誰も少子化や国内マーケットの縮小化など懸念していなかった頃に危機感を抱き、リスクのある投資にチャレンジして、グローバル企業に脱皮したように、今こそ、チャレンジして未来を掴まねばならない。言うは易し、行うは難しではあるが、キッコーマンという良き「歴史に学ぶ」べきだろう。

 茂木氏は、成功の秘訣とでも言うべきことを私への答えの最後に付言した。

 「焦るな。短期の成果を望むな。長期に、じっくりと、倦むことなく努力を継続するべきだ。人の味覚というものは、一朝一夕に変えられるものではないのだから」

 この言葉は、多くの経営者の胸に響くことだろう。短期の成果を求めるアクティビスト株主に日ごろから攻められている経営者が多いからだ。今こそ、かつて日本企業が、その美質として「長期的視点」を見直す時期かもしれない。それがまさに「歴史に学ぶ」ことなのだろう。  

 (時事通信社「金融財政ビジネス」より)

【筆者紹介】
江上 剛(えがみ・ごう) 早大政経学部卒、1977年旧第一勧業銀行(現みずほ銀行)に入行。総会屋事件の際、広報部次長として混乱収拾に尽力。その後「非情銀行」で作家デビュー。近作に「創世(はじまり)の日」(朝日新聞出版)など。兵庫県出身。
(2023年8月17日掲載)

コラム・江上剛 バックナンバー

話題のニュース

会員限定

ページの先頭へ
時事通信の商品・サービス ラインナップ