元高校選抜の「ナンバー8」
ラグビーに明け暮れ、全日本高校選抜としても注目された経験を持つのは公明党の前国土交通相・赤羽一嘉氏(65)。左手に大きなけがをして大学でのプレーは断念したものの、高校時代には名門高の監督の目に留まり、転校を求められるほどの選手だった。(時事通信解説委員・村田純一)
「中学の時は卓球をやっていましたが、僕は体も大きいし、足も速かったので、 もし高校受験で都立の青山高校に決まったら、伝統あるラグビー部に入部しようと思っていました」
当時は都立の学校群制度があり、合格者は抽選で入学する高校が決まった。姉も通っていた青山高への進学が決まり、高校入学前のオリエンテーション合宿で、同期生の一人が持ってきたラグビーボールを持って砂浜を「ランパス」したのが、初めてボールに触った時。「面白いな」と思ったという。
ちょうど1970年代のラグビーブームが盛り上がる頃だった。
高校1年生だった1975年1月15日、社会人と大学生の優勝チームが争うラグビーの日本選手権決勝を観戦した。近鉄と早稲田大の顔合わせ。近鉄は名ウイング・坂田好弘の引退試合で、原進(プロップ)、小笠原博(ロック)、今里良三(スクラムハーフ)らがメンバー。早稲田はキャプテン石塚武生(フランカー)、藤原優(ウイング)、植山信幸(フルバック)ら。赤羽氏はかつての名プレーヤーの名を懐かしく振り返った。
「その時は国立競技場がほぼ満員。すごいブームになった年だった。ラグビー協会もそんなに観客が入ると思っていなかったようだ。入場券も当日売りがほとんどで、ハーフタイムにいっぱい客が入って、6万人ぐらいになった。すごい試合だった。ラグビーブームが急に盛り上がった時にぼくはやっていた」
◇「青山か目黒か…」
赤羽氏の最初のポジションはウイング。足が速かったからだ。
「生まれて初めてのトライは、ウイングの時。私立目黒高校(現・目黒学院高校)との新人戦の試合で、1年生の冬」
2年生からは、体格と足の速さを生かし、フォワードのナンバー8やフランカーを務め、高校ラグビー界でも頭角を現すようになる。
70年代当時の目黒は全国大会でも優勝を重ねた強豪校。梅木恒明監督が率いた全盛時代だ。その目黒のレギュラーのナンバー8だけが2年生で、あとは全部3年生だったという。梅木氏は、高校の全日本選抜にも選ばれるほど急成長した赤羽氏に目をつけたようだ。梅木氏はオール東京や高校選抜の合宿で赤羽氏のプレーを見て、「赤羽、3年の2学期から目黒に転校して来ないか」と勧誘した。
赤羽氏は「真剣に考えた」という。明治大から新日鉄釜石に入った名選手、松尾雄治は高校時代、成城学園から目黒に転校し、全国優勝を果たしたことがある。
「青山か目黒か…」
悩んだ末、結局は青山高にとどまった。今までの仲間と引き続きプレーすることを選んだのだ。
その年、東京大会の準決勝で青山高は目黒高と対戦した。目黒はそこまで予選で戦った高校に100点以上の差をつけて勝利していた。青山は4―60で敗戦。目黒が100点を取れず、失点もしたのは青山だけだったという。目黒は決勝でも100点以上の差をつけた。それほど強かった。
◇キックされ左手に大けが
慶応大に進学したが、ラグビーを続けることは断念した。高3の時の大けがが原因だ。
「高校3年の時が一番のピークだった。高3年の春の関東大会で、敵がキックしようとしたボールをチャージしようとした時、私の左手の指が思い切り蹴られて、えぐられた。突き指したと思ってパッと見たら血だらけで、手が見えないぐらい。ぱっくり開いて、真っ白な骨が見えた。肉がバッサリ取れてしまった」
タオルで止血をしたものの、関東大会の公式ドクターは「これはひどい出血だなあ。やるか?」と聞く。当時は脳振とうでも、やかんの水ぶっかけられて「やるか?」と聞かれたら「やります」と必ず言う選手がいた頃だ。
「手がぶらぶらしている感じがあって、ドクターに『先生、これ、指が落ちたりしませんか』と聞いて初めて、『そうだなあ。やめとくか』と言われた。救急車で運ばれて、すぐ手術したけど、ケガは全然治らなかった。リハビリもしたけれど、今でも指が十分に曲がらない。指2本に力が入らず、大学ではプレーも激しくなるし、突き指する恐れもあったので、プレーはやめました」
◇「トライしても喜ぶな」の時代
ラグビーの良さ、面白さとはどんなところか。
「ラグビーボールは楕円形だから、ラッキー、アンラッキーなところがあると素人の人は思う。だけど、たぶんラグビーぐらい実力通りの結果が出るスポーツはない。力がある方が必ず勝つ。練習は裏切らないという意味では、すごくいいスポーツだと思う。練習すればするだけ報われる。前回2019年のW杯で日本があれだけ勝ったのは、まぐれではなく、大会に出るまでの練習量やチームの仕上げ方が良かったからだと思う」
「もう一つ大事なことはフェアプレー。僕らの頃は、レフリーは『絶対』だった。ミスジャッジがあったとしても、それはミスではなく、レフリーの言う通りだと教えられた」
「トライをした時、『喜ぶな』とも言われた。喜ぶのは相手に対して失礼だと。本当は初トライしてうれしいんだけど、喜んじゃいけないと(笑)。精神性が求められるスポーツだったと思う」
そういう時代は確かに存在した。トライした選手は黙ってセンターラインに戻り、味方もトライした選手に抱きつかなかった。今振り返ると、不思議でもある。
「やっぱりハードワークで、ラグビーは人間のぎりぎりまで弱さを突き付けられる。これ以上できないというところまで。自分の一生で、これ以上できないと追い詰められることはなかなかない。特にラグビーの合宿なんか。自分の限界を知るスポーツだから、自分に素直になれるんじゃないか。限界を知るということは、自分の弱さを認識することだから。それで、自分に素直になれる。ラグビーをやった者同士はすぐ、肝胆相照らすことができる。自分の限界に挑戦し、プレーヤー同士を認め合う。本当はけんかになってもおかしくない激しいスポーツだけど、規律や自制心が求められる」
「『ラグビーは少年をいちはやく大人にし、大人にいつまでも少年の心を抱かせる』(ラグビー・フランス代表元主将ジャン・ピエール・リーブ)という有名な言葉がある、そういうものだと思う」
◇簡単にギブアップしないことを学んだ
ラグビーで何を学んだか。社会人、政治家になって生きていることは何か。
「諦めないこと。結果が出るまで頑張れる。簡単にギブアップしないというのは、ラグビーで培われたことだと思う。正義感も大事。ラグビーは汚いプレーはしてはいけない。汚いプレーは、ラガーマンとして認められない。政治家として、社会正義だと思うところは必ず頑張らなければいけないと思う。『ワン・フォア・オール、オール・フォア・ワン』(一人は皆のために、皆は一人のために)もそうだ。政治家は自分のためにやっているわけじゃない。意識したことないけど、ラグビーで培ったことは、今の人間形成に貢献し、政治家としてプラスになったかなと思う」
最後に、W杯での日本代表への期待を聞いた。
「アルゼンチンは強いと聞いている。客観的には勝つのは簡単じゃないと思う。しかし、選手たちの言葉を聞くと、彼らは自信があるようだ。まだまとまっていないと言っていたけど、今のジャパンの方向は間違っていないと。精度を上げていけば、期待できるかもしれない」
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赤羽一嘉(あかば・かずよし)氏 略歴
1958年、東京都生まれ。慶応義塾大法学部卒。三井物産勤務を経て、93年衆院選で公明党から出馬し初当選。以来9回当選。経済産業副大臣、国土交通相などを歴任し、現在、党幹事長代行。衆院兵庫2区選出。