生きたラグビー経験 ビジネスにも政治の世界にも
高校、大学でラグビーにどっぷりつかっていたのは日本維新の会の幹事長・藤田文武氏(42)。筑波大4年の最後のシーズン、けがで試合への出場を果たせず、悔しい思いをしたものの、主務としてチームをまとめた手腕は現在の政治活動にも生きているようだ。藤田氏にラグビー熱中時代を振り返ってもらった。(時事通信解説委員・村田純一)
◇勉強そっちのけだった高校時代
藤田氏がラグビーを始めたのは高校に入ってから。なぜラグビーを始めたか。
父親が空手の道場を開いていたので、3歳から中学まで空手を習い、中学校の部活ではバスケットボール部に入っていた。高校に入ると、中学のバスケ部で1年上の先輩がラグビー部にいて、近づいてきた。
「先輩から、『おお、おめでとう』と言われ、無理やり引っ張り込まれて、仮入部したら、そのまま逃げられなくなったんです(笑)」
入学した大阪府立四條畷高校は、1948年の全国高校ラグビー大会で準優勝したこともある名門校。しかし、藤田氏が入った頃は中学での経験者も少なく、弱くなっていた。部員は総勢40人ほど。身長178センチで、2番目に背が高かったので、フォワードのロックをしたり、フランカーをしたりしていた。
「二つ上のキャプテンが高校日本代表候補で、すごくかっこよくて、憧れもあって、けっこう一生懸命やった。同学年は仲が良くて、ラグビーをしているのが楽しかった。いい成績は残せなかったけど、高校3年間はラグビーばかりして、全然勉強した記憶がないですね」
高1の頃、最初はテストで400人中50番台の成績だったが、1年生の2学期以降は「380番より上にいったことがなかった」という。「ラグビーばかりして、授業中は寝るし、勉強はしないし、テスト勉強もおろそか。3年生の時は赤点ばかりだった」と振り返る。
高校ラグビー部の顧問で担任の先生が筑波大出身だったこともあり、筑波大の体育専門学群を受験したが、あえなく不合格。1年間の浪人を経て筑波大に入学。体育会系のラグビー部に入った。
「高校3年間は楽しかったけど、選手としては不完全燃焼でした。もっとレベルの高いところでやってみたいという思いもあったんです」
◇泣く泣く引き受けた「主務」
大学ではフランカーを希望し、ナンバー8も担当した。だが、結局、「一本目」のレギュラーメンバーにはなれなかった。
「同年代の選手には日本代表候補や推薦入学の人がかなりいて、レベルは高いと思ってたんです。2年生、3年生で頑張って評価は上がりつつあったんですけど、4年生の時に大けが。ラストシーズン前の夏に左足首のじん帯を3本切って、松葉づえを使うことになりました」
半年を棒に振り、プレーができる頃はもう大学選手としては引退する時期となってしまった。それでも大学時代にラグビーを通じて学んだことは大きかった。大学4年時のチームの新体制で、「主務」を務めた経験は、社会人や政治家になってからも生きているようだ。主務とは、いわばマネジャー。対外試合の調整、日本ラグビー協会や大学本部とのやり取り、物品の管理などの責任者である。
「面倒くさい仕事がけっこうあるんです。チームのプレーのリーダーが主将(キャプテン)なら、運営上のリーダー、責任者が主務。80人の部員がいて、監督やコーチともいろいろやり取りをしなければならない。僕はプレーに専念して、レギュラーになろうとしていたので、主務は足かせでしかないと思って、絶対に嫌だと言ってました」
筑波大の場合、チームの新体制を決めるのは、あくまで学生だという。
「お前しかやれるやつはおらんから、やってくれ」
「絶対、嫌や」
「お前ぐらい組織を動かせるやつは他にいないから、頼むわ」
主将や副将から説得され、泣く泣く引き受けたそうだ。
「せっかくやるんやったら、ちゃんとやろうと思ったんです。僕らの大学は体罰やパワハラはない大学だったんですが、やっぱり理不尽な構造があった。いつも何かミスがあると1年生ばかり怒られていた。当時あった『委員会システム』をもっときちんと機能するよう整理し、ジャージーを管理する委員会、グラウンドを管理する委員会、会計を管理する委員会などそれぞれ4年生のリーダーを責任者にした。3年生が全体的に統括し、2年生がサポートし、実務は1年生が行うが、1年生のミスは2年のミス、3年のミスで、最終的には4年生が責任を取るようにし、1年生を理不尽にとがめないようにした」
「そうすると皆、当事者意識が湧く。組織運営が良くなり、プレーにも影響することを知ったんです。今から振り返ると、そういうバックオフィス機能、下支えする組織をつくるのは大事なことだったと思います」
当時、筑波大は大学ラグビーの「対抗戦グループ」で毎年5、6位の争いが続いていた。大学選手権には5位なら出られるが、6位なら出られない。
「序盤で2連敗して、絶望的な状況になったが、僕らの組織がしっかりして、仲が良かったこともあってチームは結束し、シーズン中に成長し、その後、慶応大と明治大に勝った。早稲田大には負けたが、3位になった。僕はけがで出られませんでしたが、努力を積み重ねて最後に実を結んだシーズンだったと思っています。1回や2回の負けぐらいで諦めたらいかんと。主将、副将が『絶対にいける』と励まし、最後は明治と慶応に快勝したという成功体験を得て、やっぱり、諦めたらいかんなと。その心とチームの結束が大事だということを学びました。ビジネスでも政治の世界でも、めちゃめちゃ生きていることですね」
◇「努力は無限大」
ラグビー部の大学4年生の送迎会(納会)では、最後に卒業生があいさつし、4年間の感謝の言葉を述べる。藤田氏は皆のあいさつを聞きながら、はたと気付いたことがあった。
けがでレギュラーにはなれなかった藤田氏だが、自分が大したプレーヤーではないと自覚していたからこそ、人よりも努力し、その努力をしたという部分においては自信があった。同期も最初はレギュラーになれるような選手ばかりではなかった。しかし結果的に、最後は自分を除く全員がスタメンに入った。懸命に努力をしたのは自分だけではなかったのだ。同級生のあいさつを聞きながら、「心に突き刺さった」という。
「僕の同期は全員、努力型。スタープレーヤーは少なく、(社会人の)トップリーグで活躍した一人を除き、皆、雑草という感じでした。その時、やっぱり、努力は無限大だなあと思ったんです」
藤田氏は社会人になって、馬車馬のように働いた。
「会社を起業するまでの間、人の何倍も努力してここまで来た。自分は人より飛びぬけた才能があるわけでもないけれど、努力は誰でもできる。それを積み重ねたら、必ず道は開けると少なからず思っていました」
◇大事なのは冷静さと情熱
藤田氏にとって、ラグビーの面白さとは。
「二面性があるスポーツだと思っています。二つの違う側面が融合しないと勝てない。戦略を理解して遂行する冷静な部分と、自分より大きな相手にぶつかっていかなあかんので、ちょっと頭のねじが抜けたような、狂気みたいな気持ちの部分もないとダメです。頭はクリアだけど、一方でカッカしている状態。どっちかに寄り過ぎてもいけない。そこがうまくできていると、いいプレーができるんじゃないか。ビジネスも一緒で、理論も大事だけど、情熱も大事。きれいなビジネスモデルだけでは従業員は振り向いてくれないし、ついて来ない。熱意や情熱だけでも、『気持ちだけ言われても…』となる。両方大事で。それがすべてに通じるんだなと思う。それを肌感覚として吸収できるスポーツだと思う」
フランスで開催されるラグビー・ワールドカップ(9月8日開幕)で日本代表に期待することは?
「この数年で日本ラグビーのレベルは相当上がっている。一つや二つの金星では終わらず、実際にメダルを狙えるチームに仕上げて乗り込んでいくことは可能と思うので、決勝、優勝を目指してほしい」
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藤田文武(ふじた・ふみたけ)氏 略歴
1980年、大阪府寝屋川市生まれ。筑波大体育専門学群卒。高校講師、会社役員を経て、2019年の衆院大阪12区補選に日本維新の会から出馬し、初当選。現在2期目。党広報局長、政調副会長を経て、21年11月に幹事長に就任。