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甲子園の伝説のスラッガー、今はバスケットB1チーム社長 群馬クレインサンダーズの阿久沢毅さん

2023年07月17日14時00分

 阿久沢毅―。長年の高校野球ファンなら、その人名に反応し、甲子園での活躍を思い浮かべるだろう。1978年春、第50回選抜高校野球大会でベスト4に入った桐生(群馬)の中心打者で、2試合連続本塁打を放つなどしてプロにも注目された左のスラッガーだ。62歳の阿久沢さんは今、群馬県太田市を拠点とするバスケットボールのBリーグ1部(B1)、群馬クレインサンダーズの運営会社(群馬プロバスケットボールコミッション)社長として陣頭指揮を執っている。
 地元の群馬大を卒業後、母校を含む高校で保健体育の教諭、野球部の監督を長く務めた。そして定年を迎える直前の2020年、59歳で異例の転身。「野球人」から「バスケット人」へと歩んだ阿久沢さんが時事通信のインタビューに応じ、自身の足跡について語った。(時事通信社 小松泰樹)(以下、敬称略)

 5年下旬に琉球ゴールデンキングスの初優勝で幕を閉じたB1の22~23年シーズン、群馬クレインサンダーズは東地区で29勝31敗の5位。チャンピオンシップには進めなかったものの、B1昇格1年目の21~22年シーズン(25勝30敗の7位)から着実に前進した。

 4月には、上下に動かせる可動式のセンタービジョンなどを備えた5000人収容のメインアリーナ「オープンハウスアリーナ太田」(太田市総合体育館)が完成。シーズン中、このアリーナで6試合を行い、いずれも5000人超の盛況ぶりを示した。この舞台で来季(23~24年シーズン)は30試合を実施する予定だ。阿久沢は笑顔を見せつつ、さらなる観客増へ、気を引き締める。

 「やるべきことがたくさんあって、幸福感があります。とはいえ、まだまだバスケットボールを(会場で)見たことがない人もたくさんいるでしょう。とにかく、まずは一度見に来ていただいて、そこから固定ファンになってもらえるような魅力を与えられたらと思います」

◇ ◇ ◇

 昭和50年代にさかのぼる。1975年。野球少年だった阿久沢は、群馬県の大胡中で投打の柱として県大会で優勝した。当時、既に183センチ、80キロの堂々たる体格。左腕のエースでもあった。

 「郡の予選3試合、県大会の5試合を投げて、投手としては使い果たした感もありましたね」

 高校は、他県の強豪私立からも誘われた中、県立の伝統校、桐生に進学。野球部はそれまで春11度、夏13度の甲子園出場を誇り、2度の選抜大会準優勝などの実績があった。同学年には、やがて阿久沢とともに甲子園を沸かせるサウスポーの木暮洋がいた。

関東4強、センバツへ

 桐生にとって10年以上遠ざかっていた甲子園出場を手繰り寄せたのは、2年生の秋。絶対的なエースに成長した木暮、主砲で一塁手の阿久沢を軸に関東大会で4強入りした。

 「県大会の前、練習中に走者と交錯して右手首を骨折。ギプスで固めて、関東大会には間に合いました。塩山商(山梨)との試合で3安打、印旛(千葉)との準決勝でも2安打でした」

 印旛には延長戦の末に惜敗。その印旛が優勝し、県内のライバル校だった前橋(群馬)が準優勝。関東は3枠で、桐生を含む3校にセンバツ切符がもたらされた。

豊見城を破り勢いづく

 選抜大会の初戦は、印旛やPL学園(大阪)と並び優勝候補に挙げられていた豊見城(沖縄)が相手。豊見城は4年連続出場で、前年夏の甲子園では8強入り。エース神里昌二、後にプロ野球阪急、オリックスで活躍する強打の捕手、石嶺和彦を擁していた。その強豪に3―1で勝った。

 「(先乗りで)調査されていたOBの方から、『豊見城の練習を選手に見せるな』との報告があったそうです。試合では木暮の集中力が光りました。無欲だったから『あれっ? 勝っちゃったよ』という感じです。宿舎は西宮市の旅館で、おかみさんが自分たちのことを『本当に、普通の子だね』と言ってくれたのがうれしかったですね」

 阿久沢の打棒は次戦から全開。岐阜(岐阜)との2回戦で、左中間への本塁打を含む4安打と猛打を振るった。7―0で快勝。続く準々決勝、郡山(奈良)戦では右越えに一発。1本目は甲子園の右翼から左翼に向かって吹く「浜風」にうまく乗り、2本目は逆風を突いた。桐生は4―0で勝った。

2戦連発、「王2世」とも

 選抜大会で2試合続けてアーチをかけたのは、1958年の第30回大会で早稲田実(東京)の王貞治が記録して以来。「王2世」と称され、注目度が一気に高まった。木暮も2試合連続完封。投打の軸が甲子園で躍動した。

 「最初の本塁打は、打った時にレフトフライかと思いました。こすった感じだったから『あれっ? 入った』と。2本目は読みが当たりました。郡山の池上投手はサイドスローからのシンカーが得意で、1打席目はそのシンカーを打てずに三振。2打席目で、シンカーをファウルにしました。なので次は真っすぐか、と。そこに内寄りのストレートが来たから、振り抜きました。(2試合連続は)王さん以来と聞かされ、『えっ? そうなんですか』と驚きました。(比較されるのは)本当に恐れ多くて、穴があったら入りたい気持ちでしたね」

同郷投手の完全試合に興奮

 時間を少し戻す。1回戦で前橋のエース松本稔が、比叡山(滋賀)を相手に春夏を通じ史上初の完全試合を達成した。淡々と打たせて取り、1―0の勝利で試合時間は1時間35分。大記録を成し遂げても、普段通りの振る舞いだった。桐生ナインにとっては、県内の試合で顔を合わせている身近な存在だ。

 「テレビで見ていて『すごいな』と興奮しました。われわれの気持ちも高まりましたね。松本君が奮い立たせてくれました。彼は周囲の大騒ぎに『なぜ?』という反応だったけど、自分も(王貞治以来と言われ)同じような感覚でした」

準決勝で浜松商に惜敗

 木暮、阿久沢の充実ぶりが光り、上昇機運の桐生だったが、準決勝で惜敗。2年生のエース左腕、樽井徹がいた浜松商(静岡)に2―3で屈した。その浜松商が決勝で福井商(福井)を下し優勝した。

 「準決勝は少し集中力を欠いていたかもしれません。でも、ベスト4まで残れること自体、想定外でした」

 センバツで旋風を巻き起こすなどした高校は、各地から招待試合の誘いがある。桐生は大阪でPL学園や浪商(現大体大浪商)と対戦した。日生球場でのPL学園戦。阿久沢は190センチ超の長身右腕、金石昭人から2本の本塁打を放った。金石はエース西田真二の控えだったが、プロ野球広島に入団して潜在能力を発揮。日本ハムでは抑えで活躍するなど、プロ通算で72勝61敗80セーブの成績を残した。高校時代の金石から打った2発が、やがて阿久沢の運命を左右する。

プロの全球団が熱視線

 桐生は夏の第60回全国高校野球選手権群馬大会を制した。選抜大会4強が春夏連続で甲子園に出れば、優勝候補の呼び声も高まる。初戦は膳所(滋賀)に大勝。しかし、2回戦で県岐阜商(岐阜)に敗れた。夏の頂点に立ったのは、西田が投打で活躍したPL学園。「逆転のPL」とも言われた。センバツで強烈なインパクトを与えた阿久沢には、プロのスカウトから熱い視線が注がれた。

 「全球団から関心を寄せられたようです。でも、プロに行こうとは思っていませんでした。西武のスカウトには、高校の大先輩で先般お亡くなりになった毒島章一さんがおられました。どうして僕がプロから注目されているのか、監督さんに聞いたところ、(打撃だけでなく)一塁の守備での、膝の柔らかい使い方が良かったのだそうです。招待試合で松商学園(長野)と対戦した時、試合前練習での私のフィールディングに対し、見に来られたお年寄りの観客から拍手を頂いたこともありました」

「阿久沢先生」で30年以上

 進路の選択肢で、最終的に決めたのは国立の群馬大教育学部進学。幼少期に父を病気で亡くし、母の元で育った環境も影響したという。大学では準硬式野球部でプレーした。卒業後は小学校の教員を経て、県立高校で教諭と野球部監督の日々。太田を振り出しに、母校の桐生、その後は渋川、勢多農林と、合わせて30年以上に及んだ。

 「太田に赴任していた当時の生徒が今、地元企業の社長になるなどしてクレインサンダーズを応援してくれています。『阿久沢先生』と呼ばれて。うれしいですね。桐生では、夏に(群馬大会)ベスト8に進みましたが、その先はなかなか厳しい。なのでセンバツをにらんで、秋からの新チーム強化に重点を置きました。どこよりも早く合宿をして、守備力を高めて。関東大会までは進みましたが、もう少しのところでセンバツには届きませんでした」

高校時代からつながる「運命の糸」

 教員生活の区切りまで、あと1年という時期に、バスケットボールのBリーグという未知の世界から声が掛かった。プロチーム運営会社の社長ポスト。当時は前橋市が本拠地で2部(B2)だった群馬クレインサンダーズを巡っては、住宅販売のオープンハウスが筆頭株主になり、新たな運営体制に移行していた。阿久沢が新社長候補に浮上した端緒は、高校時代にさかのぼる。PL学園との招待試合で金石から放った2本塁打だ。

 オープンハウスグループの幹部でもある群馬クレインサンダーズのゼネラルマネジャー、吉田真太郎がある時、旧知の間柄で今は野球解説者の金石に新社長候補について相談。群馬のチームを運営するスポーツ関係者…。その中で、こんなひと言があったという。「俺は阿久沢しか知らないけどね」。広島や日本ハムで先発、抑えとして実績を残した金石に、40年以上も前の高校時代、それも公式戦ではない招待試合で痛打を浴びた記憶が残っていた。阿久沢自身も驚く、運命的につながっていた「糸」だった。

コロナ禍、出はなくじかれる

 「高校教師を早期退職し、さあ、という時、新型コロナウイルスの影響でBリーグがストップ(20年3月27日に19~20年シーズンの残り全試合を中止にすると発表)。いきなり『えーっ、そんな…』という感じで。パートナー企業回りは本当に大変でした。それでも、10月に20~21年シーズンが始まると、お客さんが来てくれて、われわれも気合十分。ただ、当時のアリーナは駐車スペースに限りがあり、せっかく来てもらったのに『それなら帰る』と言われ、『帰らないでください』とお願いすることもありました」

 群馬クレインサンダーズはその後、本拠地を太田市に移し、B1昇格を決め、今春にはオープンハウスアリーナ太田が完成した。新アリーナ建設について、阿久沢がこんなエピソードを教えてくれた。偶然ながら高校野球が絡んでいる。

 「オープンハウスグループの荒井正昭社長と太田市の清水聖義市長が19年夏の高校野球、群馬大会で、桐生南―市太田の試合を観戦したそうです。桐生南は荒井社長の母校ですね。その際、お二人の間で太田に新アリーナという構想が浮上し、そこからトントン拍子で進んだとのことです。すごいスピード感ですよね。敬服します」

人を信頼、いざ「新B1」

 Bリーグは26年10月開幕のシーズンを「新B1」と位置づけている。メインアリーナを軸に地域の発展を通じて「バスケで日本を元気に」を実現する構想。それに必要な経営規模を算出し、「入場者数」「売上高」「アリーナ」それぞれに新たな入会基準を設定した。

 「そこに参入できるように努力していきます。オープンハウスアリーナ太田という武器をうまく使って、基準を整えていきたいと思います。若手のアイデアを取り入れながら。(経営者の)手腕はないけれども、これまでにいろんな出会いがあり、いろんな人の力を感じています。人から信頼を得ようという前に、人を信頼する。その上で、本当の意味でのスタートとなる『26年』に向かっていきます」

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