「奇跡」のフォントが社会にもたらすものは 一人の書体デザイナーが変えた「日本語環境」

2023年07月14日14時00分

 スマホやパソコン、雑誌をはじめ、街中の電光掲示板やレストランのメニューに至るまで、普段は意識しなくても、印刷物やディスプレーの文字は、すべて何らかの書体=フォントで表されている。ところが、世の中には、そのフォントの種類によって、文章が読めなかったり、強いストレスを感じたりする人がいることは、あまり知られていない。

 フォントの考案や制作を仕事にする書体デザイナーの高田裕美氏は、そんな人たちの読みづらさの原因を探り、誰もが読みやすいフォント「UDデジタル教科書体」を開発した。デジタル時代の日本語環境を一変させた画期的なフォントを発明するまでの苦闘を、著書『奇跡のフォント』で自ら語っている。

見やすく「教育現場」でも使えるフォントを追求

 「UDデジタル教科書体」の「UD」は「ユニバーサルデザイン」を意味する。ユニバーサルデザインとは、文化、言語、国籍、年齢、性別、能力などの違いを問わず、より多くの人が利用できるデザインのことだ。文字の場合、文化や言語をある程度は共有していることが前提なので「格差」が見逃されがちだが、特定のフォントが「読みづらい」「見えづらい」という人は一定数存在する。「UD」と銘打ったフォントは、できるだけ多くの人が読み取りやすいようにデザインされている。

 高田氏が手掛けた「UDデジタル教科書体」は、教育現場での活用を目指して開発が始まった。

 視力の弱いロービジョンの子どもたちは、通常の教科書で学ぶことができず、文字を拡大するツールや手作りの拡大教科書を使うことで文字を覚えるしかなかった。ただ、教科書で使われるフォントは、文字の形だけでなく、書き順などの運筆が覚えやすいように、毛筆の運びを再現した「楷書体」を基本にしていた。楷書体は文字を構成する線の太さが場所によって異なっている。ロービジョンの子どもたちには細い線が見えず、結果的に文字の全体像が把握できないことが多かった。

 文字の形を覚えるだけなら、線の太さを均一にしたフォントを使えばいい。しかし、学校教育では運筆を学習するため、「とめ」「はね」「はらい」など手書き文字のパーツを再現したフォントが必須だった。

困っている人を助けるフォント=より多くの人が見やすいフォント

 著者は学校現場で働く人や特別支援教育の専門家らの協力を受け、「見えやすさ」と「学習上の必要性」を両立するフォントの開発に没頭する。ただ、筆者はフォントを作成する企業の従業員でもあった。「商品」であるフォントは、ユーザーのニーズに応えると同時に、商業ベースで利益を出す必要がある。「困った人を助けたい」という熱意だけで、フォントを世に出すことはできなかった。

 苦節8年、国の障害者差別解消法の施行などが追い風になり、UDデジタル教科書体は2016年に発売された。すると、著者が思ってもいなかった反響があった。UDデジタル教科書体はロービジョンの人たちに見えやすいだけでなく、脳機能の問題で読字に困難がある「ディスレクシア」(発達性読み書き障害)の子どもたちにとっても、「読みやすい」フォントであることが分かったのだ。

 ディスレクシアは日本語を使う人の5~8%、35人学級なら1クラスに2~3人はいるとされる。日本ではディスレクシアへの社会的理解が遅れ、障害があっても「努力が足りない」「やる気がない」と周囲から思われてしまうことが多い。

 ディスレクシアであっても本人に自覚がないことも多いが、UDデジタル教科書体の「読みやすさ」に救われた人は多かった。本書の冒頭で、ディスレクシアの男の子が「これなら読める。おれ、バカじゃなかったんだ!」と声を上げる場面が出てくるように、それまで立ちはだかっていた壁が取り払われた喜びは大きい。

 そして発売翌年には、マイクロソフト社のOS「Windows10」にUDデジタル教科書体が標準搭載され、「困った人を助けたい」という熱意が困難を抱える人を救っただけでなく、商業ベースでの成功をもたらした。

多様性の時代のビジネスモデル

 もちろん、UDデジタル教科書体が読字の困難を解決する唯一の答えというわけではなく、他のフォントの方が読みやすいと感じる人もいる。著者も困難の解決に絶対的な解答はなく、「できるだけ多くの選択肢を用意する」のが不公平の解消につながるとし、今もロービジョン、ディスレクシアの人も含めて誰もが学習しやすい環境を、フォントを通じて提供する仕事に取り組んでいる。

 本書は、書体デザイナーという仕事の実態を教えてくれるだけでなく、「文字を読みやすくする」ことを通じて公平な社会が実現できる可能性を見せてくれる。さらに、「読字に困難を持つ人が読めるフォントを作る」という取り組みが商業ベースで利益を生む事実は、「誰かの困難を助けたい=社会課題の解決」がビジネスとして十分に成立することを強く示唆し、低成長が続くわが国の経済にも一筋の光明を示している。

 高田 裕美(たかた・ゆみ) 女子美術大学短期大学グラフィックデザイン科卒業後、ビットマップフォントの草分けである林隆男氏が創立したタイプバンクに入社。書体デザイナーとして「TBUD書体シリーズ」「UDデジタル教科書体」などをはじめ、さまざまな分野の書体を手掛ける。2017年、モリサワ社に吸収合併後、32年間の書体デザイナーとしての経験を活かし、書体の重要性や役割を普及すべく、教育現場と共にUDフォントを活用した教材配信、セミナーやワークショップ、執筆、取材など広く活動中。

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