忖度なき異次元緩和批判
樋口卓也・時事通信解説委員
ゼロ金利は借金するのに好都合だ。高級住宅を買う個人のローン負担は軽く、経営不振の企業でも運転資金を借りられ、財政難の政府は低コストで大量の国債を発行できる。日本銀行の黒田東彦総裁(当時)が異次元の金融緩和を進めた結果だが、日本経済の長期停滞は続いている。『日銀の責任』は、停滞の真因を解明し、植田和男新総裁に低金利脱却の政策転換を訴える一冊だ。忖度(そんたく)なき異次元緩和批判本である。
◆2%届かず「失敗」
「アベノミクス」を掲げた故安倍晋三首相によって日銀総裁に起用された黒田氏は、13年4月に異次元緩和を始めた。デフレ不況を終わらせるため物価を2%押し上げる目標を2年で実現すると約束。国債などの大量購入に続き、マイナス金利政策や長期金利を0%に抑えるイールドカーブ・コントロール(YCC)も導入した。それでも2%目標は達成できていないとして、日銀は異次元緩和を続けている。
大蔵省(現財務省)から経済学者に転じた著者は、同省出身の黒田氏の3年先輩に当たるが、壮大な社会実験とも言える異次元緩和に手厳しい。構造改革による経済再生を唱えてきた著者はもともと懐疑的だったが、「今に至るまで日銀が望んだ形での物価上昇率目標は達成されていない。その意味では異次元緩和は失敗だった」と総括している。
◆低金利と円安が真の狙い
本書は全9章で構成。注目したいのは第4章「異次元緩和の本当の目的は何だったのか」だ。燃料価格の高騰と円安の影響で22年度平均の消費者物価は3%に達している。目標の2%を超えたのに、異次元緩和が続けられているのはなぜなのか。
日銀は、「現在の物価高は賃金上昇を伴わない一時的なもので、2%を安定的に持続できないため」と説明してきた。本書は「異次元緩和の本当の目的は、物価ではなく、金利引き下げと円安だったと考えざるを得ない」とする。
購買力低下というデメリットもあるが、貿易立国の日本では円安は全体としてメリットが大きいと考えられてきた。だが本書は、円安は善、円高は悪という固定観念に挑み、円安こそ「日本病の根本原因」だと断じる。受け取ったドルを円換算するだけで見かけ上の売り上げが増えるなら、企業は生産性向上に努力する必要がない。実際、日本企業の生産性は円安下で低下し、国際競争力も失われてきた。賃上げが物価上昇に追い付かず、消費者も円安の弊害を認識し始めている。
◆物価目標取り下げを提言
最終第9章「新しい金融政策を日本再生の第一歩に」は、著者から植田日銀への大胆な提言だ。まず物価2%目標の取り下げとその根拠となった政府・日銀共同声明の廃棄。数値目標が必要ならば、日銀だけでは達成できないが、実質賃金の上昇率にすべきだと主張している。またYCCを停止し市場機能を復活させるよう訴えている。
冒頭で記した通り、超低金利環境は所与のものとなっている。金利上昇容認には批判も出そうだが、著者は「いまの日本では、低すぎる金利によって引き起こされた歪(ゆが)みを矯正することが必要だ」と意に介さない。長期金利を不自然に低い水準に抑えれば、ゾンビ企業の生き残りを助け、マンション価格のバブルを生み出す。
本書発売とほぼ同じタイミングで、植田総裁は過去25年の金融緩和を多角的にレビュー(検証)することを決めた。ゼロ金利政策(1999~2000年)や量的緩和(01~06年)と並び、異次元緩和(13年~)も対象となる。本書は、やや経済理論の知識を要する箇所もあるが、問題意識は多くの専門家が共有していると思われる。1年~1年半後に出る日銀の検証に先立ち、われわれがその論点を整理するのに役立つだろう。
野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)一橋大名誉教授。専門は日本経済論。東大工卒業後、大蔵省に入省。72年にエール大学で経済学博士号(PhD)を取得後、一橋大教授、東大教授、スタンフォード大客員教授、早大院ファイナンス研究科教授を務めた。近著に岡倉天心賞を受賞した「日本が先進国から脱落する日」(プレジデント社)など。経済書を中心に著作は100冊を超えるが、時系列で書類を並べて使ったものは先頭に戻すという「『超』整理法」(1993年)は画期的な整理術として大ベストセラーとなった。
(2023年5月23日)