子どもが小学校に入ると、保護者が仕事を続けにくくなる「小1の壁」に注目が集まっている。岸田文雄首相が国会で「打破することは喫緊の課題だ」と発言し、SNSでは「#学童落ちた」がトレンド入りした。「壁」が急速に社会問題化した背景には何があるのか。取材を進めると、7年前に投稿されたブログ記事とのつながりが浮かび上がってきた。(時事ドットコム編集部 太田宇律)
「壁に敗戦」退職決めた母
東海地方に住む39歳の女性は、2022年6月末に12年間正社員として勤めた会社を退職した。SNSに「我が家は『小1の壁』に敗戦した」と投稿すると、同じように「壁」を経験した保護者たちから「すごくよく分かる」「学童が合う合わないが親の進退に関わる」といった声が寄せられた。
夫の転勤に伴って引っ越してきた今の家の近くには、夜まで子どもを預かってもらえる民間施設がなく、長男は小学校に併設された公立学童保育に通い始めた。長男の保育園は午後7時まで延長保育が可能だったが、そこは午後6時まで。「管理職として定時まで勤務した後、自転車に飛び乗り、全速力で子どもを迎えに行くのが日課になりました」と語る。
女性が長男の異変に気付いたのは、入学から2カ月ほどたったころだ。長男は「学童がつまらない。行きたくない」と何度も訴え、目に見えて笑顔が減った。当時、学童では新型コロナウイルスのまん延で子ども同士の会話が禁止されており、迎えに行くたびに、「走らないで」「しゃべっちゃだめ」と子どもたちを叱る職員らの声が聞こえてきた。
「このままでいいのだろうか」。女性は悩んだ末に退職を決心。「私の体力的な負担は努力すれば解決できる。でも、子どもの内面だけはどうにもできなかった」と振り返る。
夏も秋も、何枚もある「壁」
学童保育を利用する子どもの数は、この20年間で3倍以上に増えている。厚生労働省によると、2000年時点では約39万人だったが、10年には約81万人に倍増。22年5月時点では139万2158人と、過去最多を更新した。
一方、22年に学童保育を利用できなかった待機児童は1万5180人(前年比1764人増)で、このうち2117人が小学1年生だった。今年度も多くの待機児童がいるとみられ、ツイッター上では23年3月上旬、「#学童落ちた」がトレンド入り。「働きたいのに働けない」「実家は遠くて頼れるところがない」と嘆く声が飛び交った。
民間団体「保育園を考える親の会」には、保育園を卒園した家庭からも「小1の壁」について多くの相談が寄せられている。代表の渡辺寛子さんは「小学校に入ると、持ち帰るプリントや宿題、学校との連絡事項が増えるが、日中仕事がある保護者にはそれも負担。最近ではタブレット端末を使った課題などにも気を配る必要が出てきた」と説明。学童を利用できれば問題が解決するわけではなく、「夏休みに入れば給食がなくなるため毎朝弁当を用意することになり、秋になれば運動会など保護者参加の行事が増える。それまでと同じ働き方ができなくなる『壁』が、1年を通じて何枚も現れる」と強調する。
少子化でもニーズ拡大の理由
そもそも、深刻な少子化の中で学童保育の利用が拡大するのはなぜなのか。
「小1の壁」と保護者の働き方の関係を分析している一橋大の高久玲音准教授によると、国内では2016年に「保育園落ちた日本死ね!!!」と題された匿名ブログが反響を呼ぶなど、学童に先んじて保育園の待機児童問題が社会で注目されたという。
当時、待機児童は例年2万人を超えており、政府は受け皿の整備を急ピッチで推進。16年に約3万1000施設だった保育園や認定こども園などの総数は、22年には3万9000施設に増え、同年の待機児童は過去最少の2944人に減った。高久准教授は「保護者が『保育園落ちた』で仕事を諦めるケースは少なくなったとみられるが、この間、学童保育の整備は保育園ほど進んでこなかった。保育園を卒園する子どもが増えたことで、今度は学童保育の量や質の問題が顕在化した」と分析する。
高久准教授によると、21年度に保育園などに通っていた5歳児は約51万人だったのに対し、22年度に学童保育を利用できた1年生は約44万人にとどまった。「こうしたギャップが、共働き家庭にとって『小1の壁』や『学童落ちた』という形で実感されているのではないか」と語る。
疲弊する現場「安全を確保できない」
学童保育のニーズ拡大に伴い、受け持つ職員らの負担も増大している。東京都内のある区役所では23年3月下旬の夜、区内の公立学童保育の所長や職員ら約20人が集まり、区の担当者に人員補充や待遇改善を訴えた。取材に応じた女性所長は「3年前、自分の施設の登録児童は80人ほどだったが、あれよあれよという間に定員が増え、現在は約140人いる。それなのに、職員の数は3年前と全く変わっていない」と話す。
「子供たちは足の踏み場がないくらいぎゅうぎゅうに押し込まれていて、けんかが起きても人手不足で対応できない」「職員は1年契約の非正規雇用が多く、昇給やキャリアアップも望めない」。参加した他の学童保育指導員からも窮状を訴える声が上がり、「少人数で多数の子どもを受け持つため、危険な遊びをしたり、走ったりしないよう、大声で注意しないと安全を確保できない」と話す職員もいた。40代の女性指導員は「新年度は運営自体が危ういと感じるほど人手が足りない。子どもの遊びより大人の事情が優先になっている」と訴える。
こうした状況を踏まえ、学童の職員らでつくる労働組合「児童館・学童保育ユニオン」(東京)は23年3月、厚労省に待遇改善を求める要望書を提出した。中山早苗委員長は「学童保育は本来、子どもたちが『ただいま』と言いながら帰る場所、『第2の家庭』として始まった」と強調。「慢性的な人手不足で現場は疲弊しており、このままでは『第2の家庭』ではなく、『子どもを管理する場』になってしまう。職員が子どもとじっくり向き合えるよう、専門知識と経験に見合った待遇を求めたい」と力を込めた。
壁を打破するには
「保育園落ちた日本死ね」から7年を経て、深刻化する「小1の壁」。どうしたら壁を打破できるのか、取材した専門家らに聞いた。
「保育園を考える親の会」の渡辺寛子代表は「職場の上司や同僚に、子どもが小学1年生になることを報告し、最初の1年は特に大変だと理解してもらうことが大切」とアドバイスした。まずは「小学生になったら手が掛からなくなる」という誤解を解くことが第一歩といい、テレワークなどの制度を活用させてもらえるよう交渉してみることを勧める。地域の他の保護者と積極的に交流して、育児に役立つ情報を集めたり、互いに助け合ったりすることも効果的という。
一橋大の高久准教授は「学童保育の受け入れ人数を増やすだけではなく、保育の質が上がるようなインセンティブ作りが必要だ」と説く。学童の半数近くは、自治体が民間に運営を委託する「公立民営」で、人件費などのコストなどを減らして保育の質を下げるほど、利益を得られる仕組みになっているという。「サービスを向上するほど、運営側や働く人々が利益を得られるシステムを考える必要がある」と指摘し、「現在、政府は未就学児の保育の質向上を計画しているが、学童についても定員の拡充だけでなく抜本的な質向上を図らなければ、『壁』が一層拡大してしまう可能性がある」と語った。