強力な麻薬フェンタニル
2023年3月9日、米国のジョー・バイデン大統領が「Unity Agenda(統一アジェンダ)」の一環として、麻薬中毒対策として過去最大規模となる461億ドル(約6兆円)の予算案を発表した。というのも、米国では近年、麻薬中毒が深刻な状況にあり、特にフェンタニルとして知られる鎮痛剤系の麻薬が多くの米国人の命を奪ってきたからだ。
米国で今や国家的課題になっているフェンタニル中毒だが、そのまん延の裏には、近年米国と経済や安全保障などで緊張関係が続く中国の存在がある。米国では今、中国が現代の「アヘン戦争」を仕掛けているのではないかという物騒な声も出ている。
米中のもう一つの対立の原因とも言われているフェンタニル問題だが、その実態とはどのようなものなのか。
そもそもフェンタニルとは、依存性と危険度が非常に高い麻薬である。フェンタニルは合成オピオイドで、オピオイドはケシの実から採取される化合物だ。
フェンタニルは、医療現場では手術や術後など深刻な痛みを抑えるのに使われる。一方で、その効力を利用して不法麻薬として製造され、密売されている。違法に製造される場合は、他の麻薬などとも混ぜて作られることもあり、そうなるとさらに危険度が増す。不法なフェンタニルには、粉末や錠剤だけでなく、液体で摂取できるものもある。
他の麻薬と比べると、その強力さがわかる。麻薬の代表格であるヘロインと比べ、50倍の強さにもなり、モルヒネと比べても100倍強力だ。2ミリグラムのフェンタニルがあれば、人を死に至らしめることができるという。
あのスターも…毎日150人以上が犠牲者に
依存度と危険度の高さで、米国で何人もの著名人が中毒死してきた。例えば、2016年には、フェンタニルの過剰摂取で人気歌手のプリンスがミネソタ州のスタジオで中毒死している。2017年には、ロック歌手のトム・ペティもフェンタニル過剰摂取で死亡、そのほかでは、有名ラッパーのリル・ピープやマック・ミラーがフェンタニルで命を落としている。2020年には、21歳の女性ラッパー、レクシー・アリジャイが、2022年にはラップ歌手クーリオもフェンタニルの過剰摂取で死亡している。
フェンタニル問題に警鐘を鳴らしているNPO団体「FAF(ファミリーズ・アゲンスト・フェンタニル)」によれば、いま米国では、18歳から45歳までの成人の死亡原因でフェンタニル中毒が心臓病や癌(がん)を超えていると指摘されている。2020年にフェンタニルなど合成オピオイドの過剰摂取で死亡した人の数は約5万8000人で、2021年にその数は約7万1000人に増加している。毎日150人以上が死亡している計算になる。
この深刻な状況に、実は中国が深く関与している。米国で麻薬対策を担う米麻薬取締局(DEA)は、フェンタニル汚染についての報告書の中で、「中国は以前よりフェンタニルと、フェンタニル関連物質の主要な供給源であり、国際郵便やエクスプレス郵送サービスなどを介して売買を行っている。また米国に輸出されるフェンタニル関連の化学物質の供給源にもなっている。中国からのフェンタニルを押収すると、平均的に1キロ以下で、フェンタニルの純度は90%以上である」とまとめている。
中国からの輸出手段と経路
また報告書では中国からのフェンタニルの輸出手段も明らかにしている。まず中国からは「粉状」「錠剤」などとして郵便を使って送られる。米国に直接送られるものもあれば、メキシコやカナダにも郵送され、そこでさらに麻薬は薄められて、小分けされたり、錠剤に作り直したりして、各地に密輸される。
中国はこの指摘に反発している。中国の国内法でこの種の麻薬は規制をしていると主張しているのだが、実際には、フェンタニルそのものではない前駆体となる物質などについては規制できないものもあると認めている。
それでも、米国からの外交的なプレッシャーや両国間の協議もあって、2019年に中国もフェンタニルの規制の強化を打ち出した。ただ現実には2019年の規制強化以降も、中国は逃げ道を作ってフェンタニルや前駆体物質の輸出を続けてきた。その手口は、米国への輸出が厳しくなっていることから、先のDEAの報告書のようにメキシコなどを経由させて密輸をするようになった。
米国のデービッド・トローン下院議員は、「(米国でまん延する)フェンタニルの99%は中国製の前駆体となる化学物質からできている。それを使って、メキシコの麻薬カルテルであるハリスコ・カルテルとシナロア・カルテルがフェンタニルを製造して米国に運んでいる」と指摘。米大統領府の国家薬物管理政策室のラフール・グプタ室長も、中国国内にいる「犯罪者たち」が、違法なフェンタニルをメキシコに出荷していると上院外交委員会で証言している。
こうした流れを受け、2022年7月に行われたバイデン大統領と中国の習近平国家主席との電話会談の際にも、やはりこのフェンタニルの規制問題が重要議題として協議された。
それでも一向にフェンタニルの中国供給ルートが減らない現状を見て、専門家の中には、中国は米国に密輸されるフェンタニルを、米国のために食い止める気はそもそもないのではないかと言う者も少なくない。
麻薬対策を外交の交渉カードにする中国
それどころか、中国はこのフェンタニルなど麻薬対策についての議論を、台湾問題などに転化して外交の「交渉カード」として使ってもいる。それが露呈したのは2022年8月に米国のナンシー・ペロシ前下院議長が中国からの反発を無視して台湾を訪問した一件だ。
中国政府は、ペロシ訪問の報復として、台湾海峡などで軍事演習を行うなどした。ただ報復はそれだけにとどまらず、中国側が米国とのフェンタニルの問題についての協議を停止すると通告してきたのである。
これを受けて、米国家薬物管理政策室のグプタ室長はこんなコメントを発表している。「5分に1人の割合で不法なフェンタニルが人の命を奪っているというときに、中国共産党が、世界的な組織犯罪に関与して不法薬物を売買している犯人たちを摘発する協力を中止するというのは受け入れられない」
中国外務省はフェンタニル問題について、米CNNの取材に対して、「アヘン戦争は、近代における屈辱の歴史の始まりだった。だからこそ中国政府は麻薬犯罪は摘発してきた」とコメントしている。
アヘン戦争は、19世紀に英国が麻薬を違法に中国でまん延させたことに反発した中国との間で起きた戦争だ。中国は戦争につながったアヘン蔓延の苦しみは分かっていると言いたいようだが、逆を言うと、麻薬汚染が国家にどれほど大変な悪影響を与えるのかもよく分かっているということである。
今後さらにフェンタニルなどの麻薬が中国からどんどん供給されて米国社会を混乱させることになれば、まさしく「現代のアヘン戦争」という状態に陥るだろう。
2022年米国で押収されたフェンタニルの量は、すべての米国人を死に至らしめるのに十分な量だったとDEAは発表している。バイデン政権は予算をつけて対策に動いているが、残念ながら、ここまで深刻化した麻薬のまん延がすぐに改善する兆しはない。(2023年4月13日掲載)
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山田 敏弘(やまだ としひろ)
国際情勢アナリスト、日本大学客員研究員。講談社、ロイター通信社、ニューズウィーク日本版、MIT(マサチューセッツ工科大学)フルブライトフェローを経てフリーに。近著に『プーチンと習近平 独裁者のサイバー戦争』(文春新書)。著書に『ハリウッド検視ファイル トーマス野口の遺言』、『ゼロデイ 米中露サイバー戦争が世界を破壊する』、『CIAスパイ養成官』、『サイバー戦争の今』、『世界のスパイから喰いモノにされる日本』、『死体格差 異状死17万人の衝撃』など。