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甲子園に「怪物・江川卓」登場から50年 捕手亀岡偉民さんが語る豪速球

2023年03月20日10時30分

衝撃も「本調子にあらず」

 1973年3月27日。甲子園球場に衝撃が走った。第45回選抜高校野球大会が開幕し、開会式に続く第1試合、作新学院(栃木)―北陽(大阪=現関大北陽)。プレーボールの直後、大観衆がどよめいた。作新学院のマウンドはエースの江川卓投手。うなりを上げるような豪速球に、打者のバットは空を切るばかりだ。全国の野球ファンや関係者を驚かせた右腕は、その日を境に注目を一身に浴びるようになり、「怪物」と呼ばれた。

 あれから50年。江川投手のセンバツ60奪三振は、今も残る大会最多記録だ。準決勝敗退による4試合にもかかわらず。そんな剛腕と作新学院時代にバッテリーを組んだ衆院議員の亀岡(旧姓・小倉)偉民さん(67)が時事通信のインタビューに応じ、当時を振り返った。(時事通信社 小松泰樹)(以下、敬称略。亀岡さんの表記は小倉)

 1年生だった夏の全国高校野球選手権栃木大会で完全試合を達成するなど、高校球界ではその名を知られていた江川。3年の春、110イニング連続無失点で自身初の甲子園に乗り込んできた。北陽戦が全国へのお披露目。前評判の高さを知っていたファンでも、その投球を目の当たりにして度肝を抜かれた。

ファウルでざわつく観客

 北陽はチーム打率が出場校の中で最高。好投手の有田二三男(後にドラフト2位で近鉄入団)を擁し、優勝候補の一角に挙がっていた。江川は、その強力打線をねじ伏せた。一回の先頭から3者三振。二回も4番を三振に仕留めた。ここまで北陽の打者はバットに当てることすらできない。5番の有田が初めてファウルを打つと、スタンドがざわついた。その有田も三振を喫した。

 「北陽打線は振り回してきたから、やりやすかった。ファウルチップだけでも、観客が『オーッ』となった。回を追うと、地元関西の北陽が相手だから球場全体が(作新学院の)敵になっているような雰囲気だった」

 江川は四回2死から有田に右越え三塁打を打たれたが、得点を許さず、4安打完封で19奪三振。作新学院は2―0で勝った。当時、スピードガンによる球速表示はなかった。テレビ中継も今と逆で、バックネット裏からマウンドを見る(投手と正対する)映像。江川のストレートは、ホームベース付近で浮き上がってくるように見えた。

 「スピード表示を当てはめるなら、江川の球は初速と終速にあまり差がなかったと思う。球種は真っすぐとカーブだけ。ストレートはもちろん速かったが、投球動作で左足を上げてからの体重移動がスムーズだったから、球の切れが抜群に優れていた」

準々決勝は20K、準決勝で初失点

 2回戦は小倉南(福岡)に8―0。江川は7回を投げて1安打、10奪三振。終盤の2回は大橋康延が抑えた。右下手投げの好投手、大橋はその年のドラフト2位で大洋に入団した。準々決勝は今治西(愛媛)に3―0。江川は七回2死後に初安打を許すまでパーフェクト投球だった。1安打、20奪三振の完封。そして広島商(広島)との準決勝。作新学院が五回に先制し、その裏、今大会初めて失点した。投げ合った相手左腕、佃正樹が打席で、走者を置いて野手の間にポトリと落ちる適時打。前年秋から続けてきた江川の無失点イニングが139回連続で途切れた。

 「江川は準決勝が雨天順延になった際にコンディションを崩し、球が浮き気味だった。あの試合は切れが悪くて、リードに苦心した。(初失点は)外した球だったんだけど、食らい付かれた。あれっ? ポテンヒットか、と。スタンドがどよめいたのを覚えている」

 1―1のまま迎えた八回の守り。2死一、二塁で広島商は重盗を仕掛けた。小倉は三塁に悪送球し、二塁走者の金光興二がホームイン。これが決勝点となり、作新学院は1―2で敗れた。江川は2安打、11奪三振で2失点、自責点1。与四球が8個もあり、制球に苦しんだ。

 「相手がダブルスチールを試みて、江川は『(三塁へ)投げるな』と言ったが、自分には刺す自信があった。アウトにしようと全力で送球したけれども、肩に力が入ってしまった」

 甲子園でベールを脱いだ「怪物」。江川は初戦から奪三振が19、10、20、11で計60。選抜大会の新記録をつくり、今も破られていない。1試合平均で15個。記録にも記憶にも残る快投だった。ただ、60個もの三振を捕手として受けた小倉の印象は、一般的な評価とはやや異なる。

 「あのセンバツで、江川は本調子ではなかった。本来の投球からすれば7割くらいかな。三振の数は決勝に進めなくても60だったけど、『打たれる気がしない』という調子だったら、もっとすごい記録も可能だったと思う。(準々決勝で20個だった)1試合の数も、それ以上になったのではないか」

2年の秋、「160キロは出ていた」

 打たれる気がしない―。その域が2年生の秋で、江川の球に最もスピードがあったのもその頃だったという。江川、小倉らが中心の新チームになり、野球部の指導体制も変わった。秋の栃木県大会、関東大会を制覇。関東大会決勝では横浜(神奈川)に6―0。その横浜が翌春の選抜大会決勝で広島商との延長戦を制して優勝した。

 「2年の秋は負ける気がしなかった。あえてこういう言葉を使わせてもらうなら、遊んでも勝てる、と。夏まではピリピリしていた野球部の雰囲気が変わり、伸び伸びとできるようになった。当時の江川はもう、半端じゃなかった。ストレートはおそらく、160キロは出ていたと思う。カーブもすごかった。右打者が(ぶつかると思って)尻もちをついていたから。それくらいググッと曲がって、僕のミットにストライクが来た」

チーム内がぎくしゃく

 選抜大会に戻る。1回戦で江川の剛腕ぶりが世間に広く知れ渡ると、作新学院ナインを取り巻く状況が一変。テレビも新聞も、メディアのターゲットはほぼ江川に一点集中する。江川本人の意思に逆らうように、ベクトルの方向がチームメートとずれていったようだ。

 「勝てば(ヒーローインタビューの)お立ち台は江川だけ。打者がどんなに打っても、ホームランでも呼ばれない。江川本人は、そういうのをすごく気にしていたんだけどね。最初は冷やかし気味だったナインも、次第にどうせ打ってもヒーローになれないんだから、というようなムードになり、チーム内がぎくしゃくしてきた」

 甲子園から地元栃木に帰って、驚いたことがある。小倉宛てにたくさんの手紙が届いたからだ。

 「段ボール箱にいっぱい。ほとんどが(準決勝で惜敗したことに対する)励ましの手紙だった。判官びいきというか。甲子園というところはすごいな、と実感した」

やるべき練習できず

 センバツでのインパクトは大きく、作新学院にたくさんの招待試合依頼が舞い込んだ。週末になれば遠方の九州や北陸へと出向いていった。宮崎実(宮崎=現日章学園)との試合では、石淵国博に本塁打を打たれた。試合が増える一方で、夏の甲子園が懸かる全国選手権栃木大会に向けた十分な練習を積む機会が少なくなった。

 「チームとしてやるべき練習がなかなかできなかった。4月から5月、6月と、江川の体には本来の切れが戻ってこなかった」

 とはいえ、栃木大会では抜け出た存在だ。作新学院の試合がある球場は超満員。「怪物」をひと目見ようと、観客があふれ出た。2回戦から登場し、江川は2試合連続ノーヒットノーラン(無安打無得点試合)。初戦は1四球だけ、次は振り逃げの走者だけ。決勝でもノーヒットノーランと敵なし状態だった。

銚子商と雨中の延長戦

 迎えた第55回全国高校野球選手権大会。作新学院は1回戦で柳川商(福岡=現柳川)に延長十五回、2―1でサヨナラ勝ち。六回に先制され、七回に追い付いた。柳川商の各打者は、バントの構えからミート中心のヒッティングに切り替える戦法を取り、15回で23三振を喫しながらも7安打を放った。2回戦は、新チームになってから対戦するたびに退けてきた同じ関東勢、銚子商(千葉)との顔合わせとなった。銚子商の2年生右腕、土屋正勝(第56回大会の優勝投手)との息詰まる投手戦が続いた。

 「センバツと違って、夏は相手チームの打者がコツコツと当ててきた。1回戦では江川本来の球が来なかった。上ずっていたから、置きにきていた感じ。2回戦は思うようにストライクが入らず、球に切れがなかった。リズムも悪かった」

 結果は雨中の延長十二回裏、江川が1死満塁から押し出しの四球を与えて0―1でサヨナラ負け。受けた小倉が感じていたことは数字にも表れ、1失点ながらも11安打を許し、奪三振は延長戦でも9個にとどまった。選抜大会、選手権大会での計6試合で、2桁に届かなかったのは初めてだった。

1死満塁フルカウント、「仲間」に戻る

 「怪物」の甲子園は終わった。押し出しでサヨナラ負けという、後味の悪い最後のようにも映るが、作新学院ナインにとって、選抜大会からチームにくすぶっていた、ある種のわだかまりが消えた。1死満塁、フルカウントになった時、江川がマウンドに内野手を呼び寄せた。

 「もう、どしゃ降りでね。僕のポケットにあるロージンも濡れちゃって、(捕球後に)江川にまともに返球できないくらい。江川は『自分が一番好きな球を投げたい』と。すると、『お前が頑張ってきてここまで来られたんだから、そうすればいい』というやりとりになって、みんなが納得した。試合中、ああやって江川の周りに皆が集まるなんて、それまでは一度もなかったんじゃないかな」

 内野陣が定位置に戻って試合再開。次の投球は、ストレートが高めに浮いて外れた。

 「負けたんだけど、すがすがしかった。(悔しくて)泣くこともなかった。その日から、チームの雰囲気が和やかになった。というより、元(選抜大会の前)に戻ったよね。江川はもともと、チーム内では人気者。ひょうきんな一面もあった。あの最後の一球で、またみんなの仲間になった」

◇ ◇ ◇

 小倉が受け続けた江川の豪速球。そのすさまじさはミットをはめていた左手に表れ、右手にも「痕跡」が残る。

 「ミットを立てるようにして構えるのでなく、前傾させて上からかぶせるようにして捕った。それでも血行障害になりましたね。それと、私の右手小指は少し変形している。左手のミットに右手を近づけて添えるようにしないと、江川の球は捕れない。ある時、スピンの掛かったファウルチップが右手小指に当たって骨折しました」

「ドカベン」のモデルに

 1973年春の選抜大会期間中、漫画家の水島新司さんが、試合の合間に評判の江川を訪ねてきた。宿舎近くの公園で江川とキャッチボール。同行した小倉によれば、「水島さんは涙を流すほど喜んでいた」。その後、宿舎の「バッテリー部屋」で江川、小倉と歓談。水島さんは当時、野球漫画「男どアホウ甲子園」で売り出し中だったが、後に人気野球漫画となる「ドカベン」の主人公、捕手の山田太郎は小倉がモデルになった。小倉は早大を経て社会人野球の熊谷組でプレー。後に亀岡姓となって政界に転身し、衆院議員当選時には水島さんから「人生にも一発逆転満塁ホームランがある」と記した色紙をもらったという。作新学院野球部OB会長でもある。

(2023年3月20日掲載)

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