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仲地礼亜を中日ドラフト1位に導いた2人の指導者 沖縄県内の大学から初の指名選手に

2023年03月28日14時30分

 昨年10月のプロ野球ドラフト会議で、初めて沖縄県の大学でプレーする選手が指名された。中日1位の仲地礼亜(なかち・れいあ)投手。沖縄大のエースとして鳴らした右腕だ。記者会見で「自分の中では(以前は)プロと考える部分は少なかったが、たくさんサポートしてもらったおかげで成長でき、決断した。沖縄の大学からでもプロを目指せると立証できた」と誇らしげに語った。新たな歴史をつくるまでの過程に何があったのか。今年2月、春季キャンプが行われた沖縄県内で、仲地をプロへ導いた2人の恩師に話を聞いた。(時事通信名古屋支社編集部 浅野光青)

 昨年末まで30年間にわたり沖縄大野球部の監督を務め、現在副部長の大城貴之さん(51)は、仲地をこう評す。「直球は最速151キロと、大学レベルでは速い。それだけだったら全国に何人かいると思うが、制球力や変化球の種類もきちんとある」

 大学入学時は違った。沖縄・嘉手納高時代から145キロをマークしていたが、今ほどのコントロールはなく、直球と得意のスライダーに頼る単調な投球しかできなかった。かつて沖縄大で捕手だった大城さんは、仲地をエースにさせようと、変化球や配球の重要性を「吹っかけていった」という。

3年時の大学選手権でプロ注目に

 上級生の投手陣がいたため、仲地は2年生の春まで試合での登板機会がほとんどなかった。2年秋のある時、カーブやツーシームを操る姿を見て、大城さんは驚いた。「春から秋にかけて急に伸びた。このピッチャーは可能性があると思った」。秋の大会で活躍すると、3年生になった2021年の6月、全日本大学選手権で1回戦の名城大戦に先発。チームは無得点で敗れたものの、1失点で完投した。社会人チームに進むことを考えていた仲地に、プロのスカウトから熱い視線が注がれるようになった。

 大城さんは、こう思った。「プロにいくにしても、3年生の春に見せたピッチングが仮に70点だったとしたら、4年生の春も70点では『伸びていないね』と言われる。なので、85点や90点を取っていくつもりで、すごく引き締めてかかった」

 仲地を嘉手納高時代に指導したトレーナーの金城判(きんじょう・わかる)さん(42)に、個人トレーニングの手ほどきを依頼。仲地の家族に相談した上で、高校時代から続けていたアルバイトをやめさせ、野球に専念できる環境をつくった。

「垂れている149キロ」を克服へ

 金城さんは指導するにあたり、まず名城大戦の映像を見た。セットポジションから始動する際、右脚に安定感がなく、ぎこちない。そのため、リリースする球に力が伝わらす、そもそも細身というのが難点―と分析。「(軸足がしっかりと)立てていない、出力的なところで弱い、細い、というのが印象だった。あの時で149キロ出ていたが、149キロの球じゃない。ボールが垂れていた。プロのレベルかと言われたら、そのレベルじゃないと思った」

 今の体格は177センチ、83キロだが、当時は体重が少なく、体の線も細かった。課題を克服するため、ランニングやウエートトレーニングなど重点的に下半身を強化。「最初『1キロ走を5本だぞ』と言った時、1本走ってぶっ倒れた。タイムも切れなかった。初めは何もできなかったから、イライラして何回も『やめるぞ』と言った」。金城さんは笑って、そう振り返る。全体練習が午前中にあれば午後に個別メニュー。チーム練習がオフの日もトレーニングをした。

 猛練習に励んでいた3年秋。明治神宮大会につながる大会で、チームは敗れてしまった。大城さんは「どこにも秋の成長をお披露目することなく終わった。すごく責任を感じた」と振り返る。

ドラフト候補生を見て、プロ志望決意

 その頃の仲地には自分に自信がなかったため、プロに挑戦する決断ができていない。強豪校と対戦して実力を測る機会もなくなってしまった。何とかして自信を持ってもらえないか…。

 そう思った大城さんは21年10月末、ドラフト候補だった九産大の渡辺翔太投手(ドラフト3位で22年に楽天入り)の投球を見せようと、北九州市民球場に連れていった。「仲地だけひいきするわけにはいかないから捕手、主将も連れて。当時の九州では九産大がすごく強かったし、渡辺君が九州の右腕では1番だった。仲地は、すごい投手がいるらしいですねっていう見方でいた」

 試合を見た日の夜。焼き肉を食べながら、仲地に渡辺の印象を聞いた。

 「あんな感じなんですね」

 「で、お前どうするんだ進路は?」

 「プロ一本でいきます」

 仲地が初めてプロ志望を口にした瞬間だった。大城さんは「僕は(渡辺を)見たことあったけど、本音で言うと(仲地は)負けていないと思った。むしろ、お前が上だと思うと。それを感じてほしかった」。もくろみ通りだった。

4年生で肉体改造

 掲げた目標は、ドラフト3位以上の指名。大城さんが意図を説明した。「本人を発奮させる意味でも、そういう設定をした。(ドラフトに)かかればいい、じゃなくて目標をちょっと上に」

 4年生の春には、体重が10キロ近く増えるなど肉体改造に成功。それまで平均140キロ前半だった球速が、その春には常時140キロ台後半になり、コースのばらつきも減った。

 そして秋。ドラフト会議前日に中日が1位指名を公表するまで、不安はぬぐえなかった。社会人チームとの練習試合を積極的に組むなどしたが、3年時の全日本大学選手権以外は全国大会に出たことがない。九州で活躍しても、打者のレベルは関東などと比べると落ちる。大城さんは言う。

 「東都のA大学があったら、A大学の投手を取っておいた方が無難というのは当然。それでも、うちの投手を取る、と。どうしたらそういう評価になるんだろうかと、ずっと考えていた。彼をどうやって全国区と遜色ないようにするか、しょっちゅう考えていた。沖縄の意地、とかそんな感じ。それは仲地も一緒だったと思う」

「結果ドラ1」

 沖縄県内の大学からは初のドラフト指名という「快挙」となった。金城さんは、喜びと同時に複雑な感情も抱いていた。表情を曇らせてつぶやく。「結果、ドラ1ですよ…」。強い口調でこう続けた。「仲地が記者会見で『沖縄(の大学)からでもプロ野球選手が誕生できると証明しました』と言ったが、あいつがここにいたから、できた。でも、ここにいてはいけない人間。本来、あれくらいの選手は(地元に)進学しない」

 通常、沖縄県内の有望な高校生にとって、進路は他県の強豪大学や社会人チームとなる。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で世界一に輝いた侍ジャパンの山川穂高内野手(西武)は中部商高から富士大へ。昨年、ノーヒットノーラン(無安打無得点試合)を達成した東浜巨投手(ソフトバンク)も沖縄尚学高から亜大に進んだ。

 背景にあるのは、野球部を取り巻く環境面の大きな格差だ。例えば、関東などの強豪大学が人工芝のグラウンドを持つのに対し、沖縄大は内野後方までが土、外野は芝の練習場を持つが整っているとは言い難い。「沖縄では大学自体も、そこに投資する感覚に関しては、県外に比べると(資金の)桁が違うと思う。沖縄の特性かもしれないが、国のいろいろな交付金もあって公共の施設がすごく充実していくじゃないですか。野球場を自分たちで持たなくても、公共の球場が増えて整備されてくから、そこを使えばいいじゃないかという発想になる」と大城さん。コーチ陣が充実している大学に比べると、沖縄大は練習も自主的な面が大きい。室内練習場がないから、雨の日は体育館を使用する。県外チームと試合をするにも海を渡る必要があり、地理的にも不利だ。

 仲地も、当初は東北地方の強豪大学への進学が有力となっていた。だが、兄の玖礼(くおれ)さんが沖縄大でプレーしていたこともあり、最終的に沖縄に残ることを決めた。

後輩と向き合い、トレーニング徹底

 当時、その素材にほれ込んでいたのが金城さんだった。「何で沖縄大に…というところから入った。高校時代から可能性を感じていたが、環境とかを考えるとプロは無理なんだろうなと思った」。大学1年の時に仲地からトレーニング指導をお願いしたいと言われたが、他の仕事もあったため断った。「お前がそこを選んだんだろ、というのもあって。手伝う意味はあまり見いだせなかった」

 それでも、大城さんからも依頼されたことで引き受けた。「やるからには、本人とめちゃめちゃ話した。『お前、3年も走っていないぞ』『トレーニングしていないぞ』と。練習を週に4日しかしないので『週に7日やっても足りないよ』と。県外の強豪チームは週7で午前、午後とやっているんだから『まず意識と生活態度も変えろ』と。地元の友達と遊びにいく、ドライブにいく、釣りにいく。『構わねえけど、次の練習には残すな』――」。プロを目指すと決意した仲地に、手弁当状態の金城さんも本気で向き合った。大学からの報酬はわずかだが、「1回2000~3000円のトレーニングルームを自腹で、練習場も自分で借りた。ほぼ投資です」と金城さん。大城さんも「こちらが想定した以上に、仲地への気持ちを注入していただいた。ビジネスでは成立しないようなところまで」と敬意を表す。

 なぜ、そこまで徹底してやったのか。「そうすることで、僕も勉強になるかなと。プロ野球選手を輩出したことはないし、その中で仲地を(ドラフト)上位でいけるようにお手伝いしたかった」。金城さん自身も、嘉手納高OBだ。当然、後輩への思いもある。「嘉手納高からプロを生み出すことは地域としても夢だった」と言う。

 地元沖縄でのキャンプ中(2月15日)に22歳となった仲地。金城さんは、まな弟子の今後についてこう語った。「自分で考える力がまだないので、そこが分かれ道になる。例えば、コンディションが悪くなった時に自分で考えてどうするのか。それができるかできないかで、彼の野球人生は違ってくる。優しいところも、ちょっと心配」。厳しい言葉になるのも、期待と愛情の裏返しだろう。長くプロで活躍することを心から願っている。

(2023年3月28日掲載)

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