バレエライター・森菜穂美
2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。その日を境に世界のバレエ界は大きく変わってしまった。
150年の歴史が培った誇りと不屈の精神
ウクライナの首都キーウ(キエフ)に1867年に創設されたウクライナ国立歌劇場のバレエ団(ウクライナ国立バレエ、旧キエフ・バレエ)は、アリーナ・コジョカルら数々の世界的なダンサーを輩出し、国際的に名をとどろかせ、たびたびの来日公演も行ってきた。だが、ロシアによる攻撃で歌劇場は一時閉鎖、160人の団員は避難生活を強いられ、90人が一時国外に脱出するなど散り散りになってしまった。さらに銃を取った団員もいた。
混乱の中で、長年同バレエのダンサー、バレエ学校校長そして副芸術監督として活躍してきた日本人の寺田宜弘が、避難先のドイツでバレエ学校の生徒たちの受け入れ先を見つけるために奔走した。また、各国に避難していた団員のうち22人を呼び寄せ、7月には東京、愛知、大阪など日本の16都市での小品を集めた公演を実現させた。寺田はウクライナ国立バレエ芸術監督の任も負うことになった。
12月にはウクライナ国立歌劇場のオーケストラ、合唱団、バレエ団が来日する“引っ越し公演”が実現した。総勢200人近くが来日して全国9カ所で公演、満席の観客の前で熱い舞台が繰り広げられた。ただ、バレエと言えばチャイコフスキーの『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』などロシア作品が有名で人気もあるが、今回、これらの上演は見送られた。寺田によると、ロシア占領下で同国による支援食糧を決して受け取ろうとしないウクライナ人や、戦争で家族を失った団員の心情を考えたという。そして舞台上では明るくコミカルな『ドン・キホーテ』が上演されたが、ウクライナ人の高い芸術性と共に不屈の精神が伝わってきた。会場は嵐のような拍手に包まれた。
現在ウクライナ国立歌劇場では舞台芸術の灯を消すまいと、バレエとオペラの公演が週に2回ずつ行われている。ロシア軍によるミサイル攻撃が続いているため、劇場の地下に設けられたシェルターに避難できる400人程度の観客を入れての公演で、上演中に空襲警報のサイレンが鳴って避難することもたびたびあるという。「劇場が最前線だと思って戦っている」とウクライナ国立歌劇場の音楽監督、ミコラ・ジャジューラが来日記者会見の際、語った言葉が印象的だ。困難が続く中でも、同劇場は未来を見詰めており、新しいウクライナの芸術を創造しようとしている。ウクライナ国立バレエも、巨匠ジョン・ノイマイヤーをはじめヨーロッパ中の著名な振付家から作品の無償提供の申し出を受け、新しい挑戦に取り組んでいるところだ。
ロシア国内でも続く混乱
一方で軍事侵攻は、ロシアバレエ界にも大きな影を落とした。世界的に知られているボリショイ・バレエ団の芸術監督を務めたこともあるが、キーウ在住の家族を持つなどウクライナとも縁の深い振付家のアレクセイ・ラトマンスキーは母国ロシアでの仕事を中断して出国、侵攻を強く非難した。同団を代表するプリマバレリーナのオリガ・スミルノワも反戦を表明し、オランダ国立バレエ団に移籍した。さらにロシアの有力バレエ団に所属していた外国人ダンサーの多くも退団を表明した。
中でもボリショイ・バレエ団とマリインスキー・バレエは政治と密接に結び付いている。マリインスキー劇場の芸術監督で世界的な指揮者であるワレリー・ゲルギエフはプーチン大統領と近い立場にいるため、海外のオーケストラとの契約が打ち切られるなど公演ができない状況に追い込まれた。ラトマンスキーや欧米の振付家は、ボリショイ・バレエ団等に提供した振り付け作品の上演権を引き上げると宣言。ところが、現在彼らの作品は著作権を無視した形で上演され続けている。ロシアバレエは“鉄のカーテン”の向こうへと閉ざされてしまったかのようだ。
広がる支援の輪
ウクライナのバレエ関係者には、多くの手が差し伸べられている。国外に脱出したダンサーたちに対し、いくつかのヨーロッパのバレエ団が稽古場を提供して、日々の基礎訓練が続けられるようにしている。世界最大級のバレエコンクールであるユース・アメリカ・グランプリは、ウクライナのバレエ学生たちが国外に脱出する手助けをするためにスタッフを国境まで派遣し、彼らがヨーロッパのバレエ学校で学べるように手はずを整えた。
また、オランダ政府はハーグに「ユナイテッド・ウクラニアン・バレエ」を設立。ウクライナから脱出したダンサーたちの活動を支援することが目的で、ラトマンスキーがボリショイ・バレエ団のために振り付けた『ジゼル』の公演をオランダや英国、オーストラリアなどで行っている。
ウクライナの芸術家を支援するためのチャリティー公演も活発に行われている。いち早く3月にロンドンで行われた公演では、世界的なスターダンサーや、金子扶生(英国ロイヤル・バレエ団プリンシパル)ら英国で活躍する日本人ダンサーも参加した。7月には日本でも、かつて共演したウクライナ国立バレエのダンサーがロシア軍による攻撃で亡くなったことに衝撃を受けた、元バレリーナで女優の草刈民代の呼び掛けで、平野亮一(英国ロイヤル・バレエ団プリンシパル)、加治屋百合子(米ヒューストン・バレエプリンシパル)などトップダンサーを集めた『キエフ・バレエ支援チャリティーBALLET GALA in TOKYO』が開催された。ウクライナ国立歌劇場を招聘(しょうへい)している光藍社が募った義援金には一千万円以上が寄せられたという。
“分断”の傷、癒やされる日は?
ロシア軍が侵攻を開始してから一年が経過したが、戦争終結の見通しは立っていない。国外に避難していたウクライナ国立バレエのダンサーの多くは、プリンシパルのオリガ・ゴリッツァのように「やはり私はウクライナにいなければならない」とキーウに戻ってきたが、ウクライナを去り欧米のバレエ団に移籍したメンバーもいる。160人いたバレエ団員は、昨年末には95人にまで減ってしまった。
やはり、「侵攻が始まって10カ月が過ぎても、サイレンの音に慣れることはありません。パニックになってしまうこともあるし、たびたび停電もあり不安な毎日を送っています」というゴリッツァの言葉は重い。寺田も10月にキーウに戻ってきてすぐ、自宅から徒歩5分の所にロケット弾が落ちたという。ただその一方で、5歳から10歳の子どもたちによる舞台が開演一時間前に空襲警報が鳴ったにもかかわらず行われ、彼らが目を輝かせて踊っていた様子にウクライナの芸術の強さと希望を感じているようだ。
依然、課題は多い。侵攻前には、バレエの本場であるロシアの名門国立ワガノワ・バレエ・アカデミーやボリショイバレエアカデミー、そしてウクライナ国立バレエ学校などに多くの日本人学生が留学していた。またロシアの国立バレエ団に在籍している日本人ダンサーも60人以上いたという。経済制裁など生活上の困難もあり、彼らの多くは帰国したが先行きの見えない状況に置かされている人も少なくない。今年2月にスイスで開催されたローザンヌ国際バレエコンクールには、ロシアやウクライナからの出場者はおらず、提携校であるワガノワなどロシアのバレエ学校も参加しなかった。このたびの戦乱は、バレエ界に分断をもたらし、消すことのできない大きな傷を残してしまった。
芸術がなければウクライナ人は生きていけない。芸術があってウクライナがある。だから劇場は危険があっても公演を続けるのだと寺田は言う。ウクライナ国立バレエはコロナ禍前まで毎年来日公演を行ってきただけに日本への思い入れが強く、その公演ができることが生きる希望になっていたという。観客の温かい反応と舞台が実現できた喜びからだろう、終演後の舞台袖では多くの団員が抱き合い、涙を流していたようだ。
芸術と政治は別という声はよく聞かれるが、近しい人を失う中、命を懸けて舞台に立つ芸術家にとってはあまり意味のない言葉だろう。侵攻が始まって1年が経過し、日本国内では関心が薄れつつあるようにも思うが、ウクライナの芸術家たちを支援する姿勢は持ち続けたい。今年の夏にも、日本各地でウクライナ国立バレエの公演は開催される予定だ。
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森 菜穂美(もり・なおみ)東京出身。企業広報やPR会社などを経てフリーランスに。バレエやダンスを中心に取材。年間150回以上の舞台を鑑賞する。「バレエ語辞典」(誠文堂新光社)「バレエ大図鑑」(河出書房新社)を監修。
(2023年2月25日掲載)
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