パリ五輪は「気持ちの中にない」
陸上女子1万メートルとハーフマラソンの日本記録を持つ新谷仁美(34)=積水化学=が、マラソンで日本歴代2位の2時間19分24秒をマークした。1月15日に米テキサス州で行われたヒューストン・マラソン。日本女子では2005年の野口みずき以来、18年ぶり4人目の「2時間20分切り」を果たし、野口が当時ベルリン・マラソンで樹立した2時間19分12秒の日本記録に迫った。
新谷本人が「苦手」と自認するマラソンでの快走の裏には、これまでの日本長距離界の常識を覆すような調整法があった。2024年パリ五輪についても、「今の時点では、私の気持ちの中にはない」と明言。独自路線を歩む考えだ。マラソンでは、今回は惜しくも逃した日本記録更新というターゲットに今秋、再び挑む。(時事通信運動部 前田祐貴)(文中、一部敬称略)
22年は、3月の東京マラソンで13年ぶりにフルマラソンに臨み、2時間21分17秒の好タイムで完走。7月の世界選手権(米オレゴン州)代表に選ばれたが、現地で新型コロナウイルス陽性となり、欠場を余儀なくされた。11月の全日本実業団対抗女子駅伝などを挟み、明けた23年1月に10カ月ぶりのマラソン出場。ヒューストン・マラソンでの目標タイムは、日本記録を大幅に上回る「2時間18分35秒」に設定した。所属する陸上チーム「TWOLAPS TC」の新田良太郎コーチがペースメーカーを務め、1キロ3分17秒(5キロ16分25秒)のペースを目安に快調に走り続けた。
日本新ならず「打ちのめされた」
だが、前半でリズムに乗り過ぎたためか、若干オーバーペースに。5キロ地点までは設定ペース通りだったが、5~10キロ、10~15キロは5秒ずつ速くなった。「体が動くからといって乗せてしまった部分が、もしかしたら後半、足に響いてしまったのかなと反省している」
後半は徐々にペースが落ち、新田コーチが外れた35キロすぎからはコースの起伏にも苦しめられた。18年ぶりの日本記録更新はならず、「自分が一人で走ったところでどんどんペースが落ちていったのが、今の自分の実力なんだな、と打ちのめされた感じ。非常に悔しい」。9月のベルリン・マラソンで日本新に再挑戦する意向を示した。
距離走の重視を再考
日本女子では01年の高橋尚子、04年の渋井陽子、05年の野口に続く2時間19分台。本人は満足していなくても、野口が日本記録をつくってから長い間破られなかった壁に風穴を開けたことには、大きな価値がある。背景に、新谷自身の特性に合わせた独自の調整方法があった。
女子マラソン界では従来から、レースに向けた練習は40キロ走を重ねたり、トップクラスだと月間1000キロ以上を走り込んだりして、強化ポイントとして「長い距離を踏む」を重視する傾向が目立つ。新谷も昨年3月の東京マラソン前は、その方法を軸に練習したが、それを再考してみた。「走ることが根本的に嫌いな私にとって、(距離走の重視は)ストレスでしかない。体調は壊す、小さなけがはする。予定外の休みが増えていって、効率が悪いなと思った」
フレッシュな状態でスタート
昨夏に練習を再開してからは、量より質を重視する方向にかじを切った。1回の距離走は30キロが最高で、月間で800キロほど。本番から逆算した綿密な練習スケジュールを組み、栄養管理も含めて疲労をためないように細心の注意を払った。「本当にフレッシュな状態でスタートに立てた」と振り返り、「大会で結果を出さなければ、練習でどんなに頑張っても水の泡。自分に合う方法が必ずある」と強調した。
TWOLAPS TCの代表を務める男子800メートル元日本記録保持者の横田真人コーチにとっても、マラソンの指導は未知数だった。試行錯誤をする中で、「1万(メートル)とかハーフ(マラソン)の延長線上に置いたメニューを考えてつくった」。トラックのスピードを十分に兼ね備え、「私は動きを良くする中で距離を踏んでいけるという選手」と言う新谷に合わせた方法にたどり着いた。
「五輪が正義」に一石も
新谷は高橋、渋井、野口ら高地トレーニングを含む猛練習をこなして日本女子マラソン界の歴史をつくってきた先輩ランナーたちに敬意を払う。「今はシューズの進化が大きい。私がどんなにタイムを出しても、(3人の)評価を超えることはできない」と話すほどだ。ただ、長く続いてきている時流には、疑問符も付ける。「まるで一つの方法でしか結果が出ないかのように時代が流れてきたなという印象があって、それがどうしても理解できない」。その上で、後進へのメッセージも込めてこう語った。「私の練習方法が正しいとかではない。選手自身も言われたことだけをやるのではなく、自分に何が必要か、何が不要なのか選ぶ力を身に付けることが必要だと思う」
さらに衝撃的だったのは、24年パリ五輪代表選考会となる今年10月のマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)はおろか、トラック種目を含め五輪を目指す考えを否定したことだ。五輪に関して声を上げたのは初めてではない。東京五輪の1万メートル代表に決まっていながらも、国民の反対意見も根強かった五輪開催に疑問を投げかけてきた。「五輪に出ること、日本代表になることが全てじゃない。とても言いにくい言葉ではあるけど、今まで五輪が正義みたいに思われていた。東京五輪を経験して、今どれだけ五輪が国民の人たちに求められているのかなと感じた」。今もなお変わらぬ考えを口にし、「五輪至上主義」に一石を投じた。
感謝の気持ちで記録を残す
新谷はスポーツ選手の役割について、「応援してくれる人たちがいるから成立できる仕事であって、独りよがりでできる仕事ではない。どんなに才能があったとしても、サポートの力がないと絶対にできない仕事」と語っている。「仕事」と繰り返す様子に、プロ意識の高さが透ける。社会的責任も認識し、「アスリートも結果だけを出していれば問題ないという時代ではなくなってきている。特に子どもたちに対して、お手本となるような人として生きていってほしい」。自戒を込めて、そう話す。
「結果を出すところは、別にパリ五輪でなくてもいい」と言う。「記録」という形で、周囲に恩返しする。「私が記録を残す理由はただ一つ。私を支えてくれる人たちへの感謝の気持ちだけ。日本記録を残したところで、私自身がどうなるということはない」。横田コーチは、自身の役割に関して「彼女が目指すアスリートとしての姿や目標に対して道筋を立てること、そこに対して、どれだけ見ている人に共感して楽しんでもらえるか」と述べ、新谷の姿勢に理解を示す。
長距離・ロード4種目で日本記録狙う
1万メートル(30分20秒44)とハーフマラソン(1時間6分38秒)の日本記録保持者が描いているのは「4種目制覇」だ。春からのトラックシーズンで、広中璃梨佳(日本郵政グループ)が持つ5000メートルの日本記録(14分52秒84)更新を狙う方針。自己ベストが日本歴代3位の14分55秒83だけに、射程圏内だろう。そして9月に、あと12秒に迫っている野口の日本記録を塗り替える目的でベルリンを走る。
新谷は今でも、マラソンへの苦手意識を抱いているという。「マラソン(専門の)選手にはなりたくない。駅伝、トラックもしっかり活躍できないと、仕事としては成立しない」と話し、多くの種目に取り組みながら強化をしていく構えだ。横田コーチも「同じような負荷を与え続けると、どうしても体は慣れてくる。トラックのスピードを磨くことは、長期的にマラソンのパフォーマンスを上げるという意味で理にかなっている。新谷の挑戦を通して、こういうやり方もあると伝えていければ、すごく価値のあることだと思う」と意義を強調する。
「体力を超える精神力のあるプロフェッショナル」
ヒューストン・マラソンで浮上した課題はゴール後すぐに認識し、横田コーチとも一致している。終盤のアップダウンでペースが上がらなかったといい、「坂の練習の回数が足りなかった。それだけではないけど、そこが大きかったと思っている」。ベルリンに挑む気持ちは前向きで、「何が足りなかったのかが明確に分かったからこそ、次に進むことができた」と力を込める。
一度は現役を引退し、30代で復帰してから各種目の自己記録を更新。今もなお第一線を走り続けるベテランは、2月26日に35歳の誕生日を迎える。実業団の岩谷産業でアドバイザーを務める44歳の野口は、ヒューストンでの新谷の快走をライブ映像で見て「いいリズムを刻んでいた。最後は(日本記録に届かず)ちょっと惜しかった」。自分の記録がいよいよ破られるのかと、「少しドキドキした」と明かす。そして、新谷の飽くなき挑戦にエールを送り、その姿勢をたたえて語った。「体力を超える精神力のあるプロフェッショナルですね」
(2023年2月8日掲載)