会員限定記事会員限定記事

「人間機関車」ザトペックと村社講平を結ぶ糸 五輪を沸かせた名ランナー2人の接点

2023年02月20日14時30分

 「人間機関車」の異名を取ったチェコの偉大なランナー、エミール・ザトペックの生誕100年を記念した展示会が東京都内で開かれた。2022年12月16日から23年1月31日まで、会場は同国大使館内のチェコセンター東京。1922年9月19日にチェコスロバキア(当時)で生まれたザトペックは、52年ヘルシンキ五輪で陸上男子の長距離2種目(5000メートル、1万メートル)を制し、さらにマラソンでも金メダルという「3冠」の偉業を成し遂げた。プロ野球のオールドファンなら、闘志あふれる力投姿が「ザトペック投法」と呼ばれた阪神の名投手、村山実を思い起こすかもしれない。

 ザトペックが競技人生で大きな影響を受けた人物は、日本の名ランナーだった。36年ベルリン五輪で1万メートル、5000メートルとも4位入賞の村社講平。1万メートルでは序盤から先頭を走り、最後はフィンランドの3人に抜かれた。小柄な日本人の力走は、同五輪の記録映画「民族の祭典」の中で多くの時間を割いて収められた。感銘を受けた一人が、若きザトペックだ。後年、ザトペックと村社は互いをリスペクトしながら、56年メルボルン五輪の選手村や81年に東京都多摩市で行われた市民ロードレースで顔を合わせ、肩を並べて走るなどした。(時事通信社 小松泰樹)(文中、選手表記など敬称略)

◇ ◇ ◇

 「私たちはチェコの文化をいろんな分野から紹介しています。今回は、ザートペク(チェコ語での読み方)さんという素晴らしい選手がいたことを幅広い世代に知っていただきたい、との思いがありました」。チェコセンター東京の所長、高嶺エヴァさん(62)はそう話す。生誕100年の催しでは、ザトペックの生い立ちや競技生活について、チェコの作家とイラストレーターがコンビを組んで描いたコミックの一部を日本語訳のパネルにして展示した。その展示パネルをたどっていく。

先進的なインターバル・トレーニング

 ザトペックはチェコスロバキアのコプジフニツェ出身。労働者階級の家庭で育ち、10代の半ばから靴工場で働いた。41年、上司に参加を命じられた陸上競技大会で2位。トップの選手にわずかに及ばず、「あと10メートルあれば勝てたじゃないか」と悔いた。その大会で優勝したランナーが、後にザトペックのコーチとなる。それ以前に、彼から受けたアドバイスに共感したからだ。

 「一つだけ覚えておくんだ。スピードは陸上の基礎だ。一気に2キロを走り切るよりも、200メートル走を全力で10回繰り返す方が効果的だと思うんだ。走る距離は同じだとしても、このスプリント練習をすれば君も、もっと…」

 「確かに理にかなっていると思います。やってみます! 僕のコーチになってください」

 当時の時流に逆らうような、先進的なインターバル・トレーニング。ザトペックは後年、こう振り返っている。「私が陸上を始めた時、同じような練習をする人はいなかった。私がキャリアを終える頃には、誰もが私の練習法を実践していた」

48年ロンドン五輪で台頭

 長距離ランナーとして飛躍的に成長し、国内を代表する選手に。第2次世界大戦後の47年には、偶然にも生年月日が同じで、後に妻となる女子やり投げ選手のダナ・イングロバーと出会った。ともに翌48年のロンドン五輪に出場。ザトペックは1万メートルで金、5000メートルでも銀メダルを獲得した。

 4年後のヘルシンキ五輪に向けて、より密度の濃い、過酷な練習を積んだ。迎えた52年の同五輪では、まず7月20日に1万メートルで連覇。29分17秒0で、2位のミムン(フランス)に約15秒差をつけた。22日の5000メートル予選(3組3着)を経て、24日に同決勝。その最終盤で、ザトペックら4人が抜きつ抜かれつの壮絶な優勝争いを演じた。

夫婦そろって金メダル

 チェコセンター東京の展示会場で、5000メートル決勝の映像を見ることができた。ラスト1周。先頭に立っていたザトペックが後続3人に抜かれ、いったんは4位に。そこからが「人間機関車」の真骨頂だ。最終コーナーに入って一気に3人を抜き返した。そのうちの1人が程なく転倒。トップのザトペックは、代名詞とも言える必死の形相で懸命に逃げ切りを図る。その背中をミムンがピタリと追う。最後の直線でミムンを振り切り、そのままゴールに駆け込んだ。ザトペックは14分6秒6、ミムンは14分7秒4だった。

 同じ日、フィールドでは妻のダナ・ザトペコワが女子やり投げを制し、夫婦そろって金メダリストに。予選3位のダナは決勝で1投目に自己ベストの50メートル47をマークし、見事に優勝した。ダナはその後も五輪に2大会(計4大会連続)出場し、60年ローマ五輪では銀メダルを獲得した。

 5000メートル制覇から3日後の7月27日。ザトペックはマラソンに挑んだ。6月に2時間20分42秒の世界最高を出した優勝候補筆頭のピーターズ(英国)をマークしながら快走。終盤にピーターズが棄権すると、独走でゴールとなるスタジアムのゲートをくぐった。大観衆の「ザートペク! ザートペク!」というコールの中、2時間23分3秒で笑顔のフィニッシュ。2位に2分半もの大差をつけた。こうして、五輪史上最初で最後になるかもしれない「長距離2種目とマラソンの3冠」を実現させた。

◇ ◇ ◇

 時間軸を、ザトペックが13歳だった1936年8月に戻す。同月2日、ベルリン五輪の男子1万メートル。メインスタジアムを埋めた観客らは一人の日本人ランナーにくぎ付けになった。当時30歳だった村社講平だ。76年7月発刊の自身の著書「長距離を走りつづけて」(ベースボール・マガジン社発行)を基に、レースの状況を再現する。

メダルに肉薄、懸命の「連続4位」

 村社はスタートして200メートル付近で先頭に立ち、その状態が1000メートル、3000メートル、5000メートル、6000メートルと続いた。その後、長身のサルミネン、さらにイソホロ、アスコラのフィンランド勢3人に抜かれて4位に後退。7000メートルを過ぎると、フィールドで男子走り高跳び決勝に臨んでいた矢田喜美雄(同種目5位入賞)の声援が耳に入り、勢いづいた。トップを奪い返すなどして、大歓声を背に力走を続ける。だが、再びフィンランド勢に前に出られ、じりじりと離された。最後はサルミネンが金メダル、アスコラが銀。イソホロを懸命に追った村社は5秒弱及ばず、4位でゴールした。

 次の種目は5000メートル。村社は8月4日に予選3組をヨンソン(スウェーデン)に次ぐ2着で通過し、7日の決勝を迎えた。前半、村社は先行するラッシュ(米国)に追随。後半に先頭に立つと、フィンランドの3人、ヘッケルト、サルミネン、レイチネンが追走する。ヘッケルトが村社の前に出た。フィンランド勢は村社を揺さぶるかのようにスピードを上げ下げする。その間、サルミネンがバランスを崩して転倒。最終盤はヘッケルトを先頭にレイチネン、ヨンソン、村社の順。村社は3位のヨンソンに追いすがったが、わずか1秒差で4位となった。

長距離王国と対等に

 転んだサルミネンが6位にとどまったものの、フィンランドは1920年アントワープ、24年パリ、28年アムステルダムの五輪3大会で長距離種目などの金メダルを計9個も獲得した英雄、ヌルミの母国。当時の長距離王国が、日本からやってきた身長160センチ台の村社を徹底マークしたレースだった。5000メートル決勝では、こんなエピソードも。インコースを走る村社を大柄なフィンランド勢が追い抜く際、スタンドの大観衆には左手で村社の頭をなでたように見えたことから、一斉に(ブーイングの)口笛を鳴らすひと幕があった。村社は著書で「特筆しておきたい」と真実を説明している。ヘッケルトは、振っている自分の左腕が村社と接触することを避けていたという。「好意的に左腕を私の頭上へ高く振り上げ、(接触した場合に)私がフィールド内に転がる危機を起こさずに先頭に立った」

 村社が出した1万メートルの30分25秒0、5000メートルの14分30秒0とも当時の日本新記録だった。両方の日本記録が更新されたのは、57年になってから。20年以上の長きにわたり破られなかった。五輪のトラック長距離種目での4位入賞は、1996年アトランタ五輪女子5000メートル4位の志水見千子とともに、今も男女を通じ日本選手最高順位となっている。

テニスから陸上へ

 村社は1905年8月29日、宮崎県赤江村(現宮崎市)で生まれた。この日、日露戦争を巡る日露講和条約締結の交渉(ポーツマス会議)過程で、日本とロシア双方が講和条件に合意。日本側の全権大使、小村寿太郎の出身地で育った村社の父が、「講和」と「平和」から講平と名付けたという。旧制宮崎中(現宮崎大宮高)に入学後は軟式テニスに打ち込んだ。その後、20年アントワープ五輪のテニスで宮崎中の先輩に当たる熊谷一弥がシングルスとダブルスで銀メダルを獲得し、日本選手初の五輪メダリストに。村社は「オリンピック」という言葉に心を躍らせ、顧問の先生から熊谷は秀でたテニス選手であり、同時に陸上の短距離から長距離までも優れていたと聞いて、陸上にも関心を抱いた。秋の運動会で6キロのロードレースに飛び入りで参加したら、思いも寄らなかった優勝。素直な喜びとともに、自分の客観的な実力が秒以下のタイムとして科学的に計測されたことに魅力を感じた。

 やがてテニスと並行し、長距離を軸として本格的に陸上に取り組む。落第の憂き目も乗り越え、県大会の1500メートルで優勝。翌年、24年パリ五輪の陸上男子三段跳びで織田幹雄が日本陸上界初の入賞となる6位。ほぼ同世代(織田は1学年上)の活躍に刺激を受けたが、狙っていた県大会の10マイルで3位に終わるなど失意も味わう。卒業後は兵役を経て県立宮崎図書館に勤務し、ロードで往復70~90キロを走り込む練習コースを設定。トラックの練習を積む中では1周のラップタイムを正確にしたり、直線とコーナーを緩急自在に走ったりと工夫を重ね、全国大会で好成績を残す。おのずと五輪もターゲットになっていった。

27歳で中大に進学

 縁あって、27歳になってから中大に進学。34年1月、箱根駅伝に初めて挑んで8区を走ったが振るわなかった。それでも10月に日本選手権の5000メートル、1万メートルで初優勝。しかし、11月に盲腸炎の手術を受け、目指すベルリン五輪へ弱気の虫もうごめいた。翌35年の大きな目標は夏のブダペストでの国際学生大会。選考会に無欲で臨んで好走し、初の海外遠征へ。まずヘルシンキで1万メートルなどのレースに出場。約1年後に五輪の舞台でしのぎを削ることになるサルミネン、アスコラ、イソホロらが上位を占めた。

 ブダペストでの大会には年齢超過で出られなかったが、その後のベルリンでの5カ国(スウェーデン、ハンガリー、イタリア、ドイツ、日本)対抗に出場し、1万メートルで優勝。収穫の多い欧州遠征となった。帰国後、11月の日本選手権で5000メートル、1万メートルとも日本記録を更新して連覇。五輪イヤーの36年を迎え、1月に箱根駅伝3区で区間賞の力走を見せ、中大の総合3位に貢献した。そして5月のベルリン五輪最終予選は5000メートル、1万メートルともに日本新で制し、堂々の五輪切符獲得。当時の全国紙は、1万メートルで出した30分41秒6を前年の世界ランキングに当てはめるとサルミネン、アスコラに続く3位、前回の32年ロサンゼルス五輪に照らし合わせると4位に相当すると報じ、五輪本番での快走を予感させていた。

◇ ◇ ◇

 ベルリン五輪では2種目ともメダルに届かなかったが、洋の東西を問わず「ムラコソ」の名は知れ渡った。第2次世界大戦、太平洋戦争の影響で、村社にとって現役選手としての五輪はベルリン大会が最初で最後となった。中大卒業後、神戸の川崎重工に就職。以来、生活の拠点を兵庫県に置いた。戦後は毎日新聞運動部に所属しながら、全国高校駅伝の発展に尽力するなどしていた。

 48年ロンドン五輪に日本は参加できず、関係者の懸命な努力によって次のヘルシンキ五輪で大舞台への復帰がかなった。同五輪最大のヒーローは「3冠」のザトペック。5000メートルに出場した大学(中大)の後輩、井上治が現地で練習中、ザトペックに「ムラコソさんは、お元気ですか」と声を掛けられたという。それを新聞紙上で知った村社は、気をよくした。

メルボルンの選手村で両雄が対面

 4年後の56年メルボルン五輪。村社はマラソン代表のコーチを務め、11月上旬に現地入りした。数日後、選手村の練習場で軽く走っていたザトペックを見かけた。4年前に知った井上とのやりとりを思い出し、握手を求めると、ザトペックも喜んでくれた。当時、村社は51歳。現役のザトペックは34歳。それぞれ「JAPAN」、「CSR」のトレーニングウエアを着て、柔和な表情で走った。

 2人はその後、チェコスロバキアの宿舎で30分ほど歓談。ザトペックは、ベルリン五輪で大柄なサルミネンらと渡り合った村社の力走シーンを「はっきりと覚えています」と敬意を込めて伝えた。村社は、ザトペックの柔らかい筋肉に触れて感心したり、脈拍を測ったり。何より感服したのは、ヘルシンキ五輪3冠を含む計4個の金メダルを獲得している英雄の紳士的な態度。「彼のどこに、競技での、あの火を噴くような闘志が秘められているのか。人間の美しさに、思わず頭の下がる私だった」。感慨深かった対面を、著書でそう振り返っている。

多摩丘陵を走った「機関車」2人

 メルボルン五輪のマラソンは、ミムンが念願の金メダル。ロンドン五輪の1万メートル、ヘルシンキ五輪の5000メートルと1万メートルで、いずれもザトペックに次ぐ銀メダルだったライバルが、3度目の五輪で雪辱した。新鋭の川島義明(日大)が5位に入賞。ザトペックが6位で続いた。ザトペックは選手村で村社と会った際、今回はヘルニア手術の影響で練習が十分でないと明かしていたが、粘って入賞(当時は6位まで)を果たした。レース翌日、選手村の食堂で偶然村社に会うと、村社の手を握り締め、川島の健闘をたたえて次のローマ五輪に大きな期待を寄せたという。

 81年4月、東京都多摩市で村社とザトペックが再会した。多摩丘陵を走る市民レース、第1回多摩ロードレース大会。2人は5キロを一緒に走り、旧交を温めた。村社は子どもの頃、開通間もない宮崎軽便鉄道(その後JR日南線)で汽車と「競走」した。友人に冗談で「汽車に勝った」と話すと、それが近所に広まってしまったそうで、後年「走る機関車」とも言われたという。そんな村社を手本とした「人間機関車」ザトペック。村社75歳、ザトペック58歳のひとときだった。

◇ ◇ ◇

 ザトペックの道しるべにもなった「ムラコソ」。ベルリン五輪で村社が力走した男子1万メートルのレースなどが描かれている記録映画「民族の祭典」は、両雄の懸け橋になったのかもしれない。映画は「美の祭典」と合わせた2部で構成された。72年8月から9月にかけて、村社はミュンヘン五輪を視察する機会に恵まれる。その間、思いがけない出会いがあった。記録映画の監督を務めたレニ・リーフェンシュタールさんとの対面だ。70歳になったリーフェンシュタールさんは「ムラコソさん、36年前と少しも変わりませんね」と声を掛けたという。

 2002年1月。村社の妻、やす子さんが、その年に100歳を迎えるリーフェンシュタールさんに手紙を送った。その中で「今は亡き夫(1998年に92歳で死去)講平でございますが、貴女様の手になるベルリンオリンピック不朽の記録映画『民族の祭典』『美の祭典』や、過ぎし日ミュンヘンや東京で再会がかなえられまして、ことのほか喜んでおりました」としたためている。2カ月後、ドイツから秘書を通じて感謝とお礼の手紙が兵庫県明石市の村社宅に届いた。リーフェンシュタールさんは03年9月、101歳で生涯を閉じた。

◇ ◇ ◇

 チェコセンター東京の高嶺さんは、体操女子で64年東京、68年メキシコ両五輪の個人総合連覇など計七つの金メダルを獲得したベラ・チャスラフスカが後年に来日した際、通訳を務めたことがある。「名花」と称されたチャスラフスカとともに母国チェコを代表する世界的なアスリートのザトペックについて、こう教えてくれた。「ザートペク(ザトペック)さんは97年に、チェコの『ベスト・アスリート・オブ・ザ・20センチュリー』に選ばれています」。ザトペックは2000年に78歳で、チャスラフスカは16年に74歳で永眠した。

 明石市の村社宅には今、三女の恵子さん(72)と夫の均(ひとし)さん(74)が住む。恵子さんは、明治生まれの父について「厳しかった印象はありません。優しい人でしたね」と述懐。均さんも「おおらかな人でした。マラソンや駅伝のテレビ中継があると、ストップウオッチを手に熱心に見ていました。箱根駅伝も毎年楽しみにしていたようです」と語る。応接間には、座右の銘とした「オリンピックの覇者に天才なし」の色紙や、盟友ザトペックと一緒に走るシーンの大きな写真パネルなどが並んでいる。

(2023年2月20日掲載)

◆スポーツストーリーズ 記事一覧

話題のニュース

会員限定

ページの先頭へ
時事通信の商品・サービス ラインナップ