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防衛省に残る戦争の記憶 大本営地下壕と東京裁判の法廷を訪ねる【政界Web】

2023年02月24日09時00分

 防衛省・自衛隊の中枢機能が集まる東京・市谷本村町の高台。その敷地内に第2次世界大戦の記憶を今に伝える構造物がいくつか残っていることをご存じだろうか。戦争の最高統帥機関である「大本営」の巨大な防空壕(ごう)跡が地下に広がり、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)の舞台ともなった旧1号館は「市ケ谷記念館」として当時の姿をとどめる。この二つを訪ねてみた。(敬称略)(時事通信政治部 島矢貴典)

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【目次】
 ◇陸軍首脳部、開戦時に市ケ谷へ
 ◇500キロ爆弾防ぐ鉄扉
 ◇阿南陸相、「聖断」を伝達
 ◇終戦で一転
 ◇三島割腹の現場に
 ◇生まれ変わった昭和史の舞台

陸軍首脳部、開戦時に市ケ谷へ

 明治以前、市ケ谷台には徳川御三家の一つである尾張藩の上屋敷があった。維新後、新政府に召し上げられ、1874年からは陸軍士官学校が置かれた。

 その後、1937年に士官学校(本科)が神奈川県の座間へ、41年に予科士官学校が埼玉県の朝霞へ移転。対米開戦に踏み切った同年12月、大本営(陸軍部)や陸軍省といった陸軍の主要機関が三宅坂一帯(現在の憲政記念館周辺)から移ってきた。

 大本営とは陸軍の参謀本部と海軍の軍令部を合わせ、戦時中に設置される天皇直属の機関。45年の敗戦まで作戦指導に当たった。

500キロ爆弾防ぐ鉄扉

 現在、防衛相や事務次官、統合幕僚長、陸海空3幕僚長ら最高幹部が陣取るA棟。官公庁最大の規模を誇る19階建てのこのビルがそびえ立つ場所に旧軍時代に存在していたのが、当時も中心施設だった1号館だ。台地の地形を生かし、その下につなげる形で壕が建設された。

 地下15メートルを掘り下げ、鉄筋コンクリートで建造。南北に3本、東西に2本の通路が交差した配置で、全体としては幅48メートル、奥行き52メートル。壕内の高さは4メートルに及んだ。防護のため上部もコンクリートで固め、その上を土で埋め戻した。工事は42年末まで1年余りを要したという。

 出入り口は三つ。500キロ爆弾にも耐えられる強固な鉄扉が置かれた。内部は陸相らの執務室、通信室などがベニヤ板で仕切られ、炊事場や水洗トイレも整備されていた。トイレの排水は近くの江戸城外堀に流れる仕組みになっていたという。コンセントの跡も残っている。

 換気のため、通気口も二つ設けられた。米軍の空襲を警戒し、ここから壕内の明かりが外に漏れないよう折れ曲がった構造とし、地上部分は石灯籠でカムフラージュした。この灯籠は今も存在する。

阿南陸相、「聖断」を伝達

 地下壕は終戦時に関連資料が廃棄されたため、戦時中にどのような使われ方をしていたのか不明な部分が多い。そんな中で、当時の様子を示す貴重な記録を、終戦時に陸軍省軍務局軍務課内政班長という枢要ポストにあった竹下正彦(中佐)が書き残している。

 それによると、45年8月10日午前9時半、陸相の阿南惟幾(あなみ・これちか)は陸軍省の高級部員を壕内に集めた。阿南は前日の9日深夜11時から宮中で行われた御前会議に出席しており、そこでポツダム宣言受け入れが決まったことを伝達したのだ。

 「皇室の保全を条件としてポツダム宣言の内容の大部分を受諾することにご聖断が下った。陸軍大臣として主張すべきことを主張したことについては、私を信頼してくれているものと信じている。この上はただただ、天皇陛下のお心のままに進むほかない」(現代語訳)。阿南がこう語ったシーンは故半藤一利の『日本のいちばん長い日』に描写されている。映画化もされたので、覚えている読者もおられるだろう。

 阿南は14日、ポツダム宣言受諾に関する詔書に署名。15日早朝、陸相官邸で自決した。

終戦で一転

 市ケ谷台は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が接収した。その痕跡として、地下壕内の壁には「NO SMOKING(禁煙)」と英語で書かれた注意書きを確認できる。

 1号館の大講堂は46年5月から、東京裁判の法廷として使用されることになった。

 当初は陸軍士官学校の講堂として建設されたため、天皇が行事に出席することに備えて正面中央の一段高い場所に「玉座」が設けられた。室内の柱の上部には菊のレリーフが飾られ、床は30センチ角のナラ材約7200枚が敷き詰められていた。

 東京裁判では玉座が取り外され、通訳ブースが置かれた。正面から見て左側が裁判官の席。右側は被告席で、元首相の東条英機らが座った。GHQの指令で室内を照らすライトが持ち込まれたが、その熱で法廷内は高温に。防衛省関係者によると、裁判長のウェブが「クーラーを設置するまで休廷する」と宣言したこともあった。

三島割腹の現場に

 東京裁判終了後は米軍が司令部として使用。59年に日本に返還され、翌年からは陸上自衛隊東部方面総監部や陸海空自衛隊の幹部学校が置かれた。1号館は東部方面総監室などとして使われた。

 70年11月25日、ここで発生したのが三島事件だ。作家の三島由紀夫らが日本刀で総監の益田兼利(ました・かねとし)を監禁。三島はバルコニーから自衛隊員に向けクーデターを呼び掛けた後、総監室に戻り割腹自殺した。

 この総監室は現在も保存されている。ドアには三島が日本刀で付けた3カ所の傷跡が残っている。

生まれ変わった昭和史の舞台

 2000年、当時の防衛庁が六本木近くの檜町地区(現在は東京ミッドタウン)から市ケ谷台に移転した。これに先立ち、1号館などの建物は取り壊されることになった。

 しかし、昭和史の舞台となった建造物であることから惜しむ声が強く、これに押される形で一部の保存が決まった。1号館の大講堂と旧陸相執務室、天皇が使用した旧「便殿(びんでん)の間」などを市ケ谷台敷地内の別の場所に移築。当時より規模を小さくした市ケ谷記念館として復元した。

 一方、戦後に封鎖された大本営地下壕は、長く人目に触れることがなく、防衛庁(省)関係者でも存在を知らないケースがあった。ここも戦争の記憶として公開を求める意見があり、安全のための補強工事を行った上で2020年から一般公開されている。

 市ケ谷記念館も地下壕跡も、見学ツアーは防衛省のHPから申し込める。激動の昭和に思いをはせてみてはいかがだろうか。

(2023年2月24日掲載)

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