マーティン・マクドナー監督
隣人が背を向けた時、そのいさかいで血を流すのは誰か
親友だと思っていた飲み仲間から突然拒絶された男の絶望―。孤島という小さなコミュニティーで起きたささいな「仲たがい」は、折り合いを見つけられずエスカレートしていく。出口のないいさかいの果てにたどり着いた地平とは?(ライター・仲野マリ)
【あらすじ】
イニシェリン島に住む中年男パードリック(コリン・ファレル)は羊飼い。ペットのロバ・ジェニーをこよなく愛し、読書好きの妹シボーン(ケリー・コンドン)と穏やかな日々を送る。島は住人全部が知り合いと言えるほど小さい。時は1923年。海の向こうにアイルランド本島がうっすらと見えるが、小舟で行き来はできるものの本土は近いようで遠い。陽が傾くと、毎日親友のコルム(ブレンダン・グリーソン)を誘ってパブへ行くのが、パードリックの最大の楽しみである。ところがそのコルムが、突然「今日からお前とは話をしない」「お前が話し掛けてきたら、そのたびに俺は自分の指を切る」と言い出す。特段けんかをしたわけでもないのに、なぜ自分を拒否するのか。納得できないパードリックは、それでもしつこく毎日コルムをパブへと誘い、仲直りを強要する。しかしその行為が、コルムに「約束」を実行させることになるのだった。
【みどころ】
人間にとって、「自分に落ち度がないのに拒絶される」ことほど理不尽なことはない。それも、昨日まで「隣人」かつ「親友」だと思っていた人間に背を向けられるとは。その意味で、パードリックの物語は「1923年のアイルランドの孤島」の話ではなく、21世紀の、日本の、中学校の教室の話にさえ通じるものがある。コリン・ファレルは内向的で思い込みの強い繊細なパードリックの心理を、ある時は愛を乞う子犬のように、ある時は怒りをぶちまけるだけの3歳児のように演じている。
一方、老境に差し掛かり、「このまま毎日パブに行って、毎日同じような世間話をしては酔って笑うだけで人生終わっていいのか?」と自問するコルムの姿にも共感する。それは、文学を理解する隣人に恵まれないシボーンが、本土に渡って視野を広げたいと思う気持ちにも通じる。故郷の穏やかな生活を愛しながらも、そこから旅立ち新しい未来を求める気持ちもあって当然だ。
しかし、なぜコルムはパードリックではなく「自分の」指を切ると宣言するのだろう。ここにアイルランド特有の事情が絡んでくる。アイルランドを常に二分してきた独立戦争と内戦の歴史だ。「以前は敵と言えばイギリス人だったが、今は…」というセリフがある。内戦では友人、親戚、隣人が、敵同士となる血みどろの戦いだ。戦えば戦うほど、自分の心が血を流す。自分の一部がもぎ取られる。パードリックとコルムのいさかいは、その象徴だ。本来は友人なのに、互いの良さも認めているのに。エスカレートする「憎しみの連鎖」を、どこかで止めることはできないのか? 終盤、彼らが本当に心を許していたのは誰かが明らかになっていく。日本も少子高齢化で一人暮らしが多くなってきた。独居がもたらす自由と孤独、そして周囲との折り合いなど、考えさせられることが多い。
イニシェリン島は架空の島名。ロケはアラン諸島のイニシュモア島他で行われた。時間も空間も飛び越えて、人間の心に刺さる作品である。
「イニシェリン島の精霊」は27日公開、1時間54分
(2023年1月13日掲載)