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プーチン的思考から予想するウクライナ侵攻の行方 中村逸郎

2023年01月16日09時00分

「死」への不可解なこだわり

 ロシア国民に厭戦気分が漂ってきているなか、プーチン大統領のまるで狂気に陥っているかのような発言に、非難の声が上がっている。昨年11月25日、ウクライナへの軍事侵攻で戦死した兵士の母親たち20人ほどを相手に、プーチン氏はこう切り出した。

 「私たちはみんな、死ぬものなんです。ウォッカを飲み過ぎたり、不慮の交通事故に遭遇したり、いろいろいな死因があります。皆さんの子どもたちの死は、価値のあるものだったのです」

 母親たちへの何の慰めにもなっていない、と私は思う。参加者といっても、与党の女性議員や支援団体から動員された人々であり、いわば身内のメンバーで占めていた。でも、画面からはとても重苦しい雰囲気が伝わってくる。みんな、押し黙ったまま。

 私はこの席で、プーチン氏が「死」という言葉を連発したことに驚いた。硬い表情からも、「死」への不可解なこだわりが感じ取れるのだ。政治家は国民の命と財産を守ることが責務なのに、プーチン氏は「人間の死は避けられない」と言明し、「息子たちの戦死を諦めなさい」と言わんばかり。私は率直に言って、今回の戦争はプーチン氏の死への恐怖心が引き起こしたのではないかと疑っている。

冷水につかって何を想う

 ロシア国民の7割ほどがロシア正教会の信者であり、プーチン氏も敬虔(けいけん)な信者として知られる。たとえば毎年1月中旬に執り行われる宗教行事「神現祭(洗礼祭)」では、聖堂内や敷地に設置されたタンクに水を満たし、司祭が十字架を浸して十字を描き、水の成聖を行う。この聖水につかるために、信者と同様にプーチン氏も裸で冷水に身を沈めて魂を清める。彼が零下20度の屋外で冷水を浴びるシーンが何度もテレビで放映されたり、カレンダーにも掲載されたりした。

 プーチン氏は実質的に約23年間最高権力者の座にあり、「神現祭」は年初に欠かせない宗教行事のようだ。在職中、チェチェン紛争やシリア内戦に軍事介入したり、ロシア新興財閥(オリガルヒ)や野党指導者、ジャーナリストの不審死が続発したり、物議を醸している。真偽のほどは不明だが、プーチン政権絡みの事件ではないかと見られている。恐らく罪の意識を抱いているプーチン氏にとって、神現祭は魂を清め、罪に向き合う大切な行事なのかもしれない。

 ロシア正教会はキリスト教の分派であり、ビザンチン帝国を経由して11世紀頃にロシアに流入した。ただ両者が異なるのは、ローマ・カトリックとは死後の解釈に大きな隔たりがあることだ。

 カトリックでは死者の霊魂は天国、または地獄に行くことになるが、その両者の間に「煉獄(れんごく)」が存在する。生前の罪の「償い」が不十分だった人たちの霊魂が、煉獄の苦しみという「罰」に清められると、天国に迎えられる。死後に罪への「償い」を成就させる試練の場が用意されており、天国に迎えられるチャンスがあるというのだ。

 このカトリックと違って煉獄の場が教義に明示されていないのが、ロシア正教会だ。人間は生きている間に悔い改めないかぎり、天国へは行けないと解されているようだ。死後にどんなに贖罪(しょくざい)を求めても、地獄から脱して天国に渡る橋は架かっていない。だから信者たちは、生前に罪にしっかり向き合うことが大切だと考えている。

 70歳になったプーチン氏は、身体的にも肉体的にも衰えを感じ取っているはずだ。ロシア男性の平均寿命は約68歳と報じられており、プーチン氏はかなりの高齢といえる。否応なしに「死」の予兆を感じ取っており、過去を振り返り、そして現実を見つめると、もはや地獄に行く運命にあると覚悟を決めたのだろうか。そのことを、身近な司祭などの誰かがプーチン氏に囁いたのかもしれない。

煉獄なき罪人、戦争は「地獄への道連れ」か

 もはや遠い過去となった2010年1月。プーチン氏と親交のある司祭に、私はこんな質問をした。

 「国内では、プーチン大統領を聖人と崇める雰囲気が漂ってきています。スルコフ大統領府第一副長官(当時)は、プーチン氏を神の使者と評しています。あなたは、どう思いますか」

 司祭は教会内の静まり返った夜の事務室で、声を荒げた。

 「ばかな話だよ。彼を聖人と呼ぶなんて・・・」

 司祭はクレムリン内で、プーチン氏と並んで歩く写真を見せてくれた。黒い法衣の胸に金色に輝く十字架を、司祭は手のひらで握り締めている。十字架を、プーチン氏のけがれから守っているかのようだ。

 プーチン氏の神現祭への参加は2021年が最後で、ウクライナへの軍事作戦に踏み切る1カ月前の神現祭には参加していない。地獄に突き落とされるであろう、破れかぶれの自暴自棄に陥っているプーチン氏にとって、親米路線に走るウクライナは、ロシアへの裏切りに映る。ゼレンスキー大統領も地獄に引きずり落としてやろうという魂胆かもしれない。プーチン氏はこれまでの多数の蛮行の罪を現世で洗い流すのは無理。だから、ウクライナを巻き込んで自滅への道に突き進んでいるのだろう。ウクライナへの残虐性が、増すばかりの情勢だ。

本物の「皇帝」でないなら

 今後予想される展開だが、1月末にはロシアが総攻撃を仕掛けるのではないか。この「総攻撃」の中にはキーウ(キエフ)に対する戦術核の使用もあり、首都が殲滅(せんめつ)するのではないかと懸念されている。そのような悲劇でもって戦闘はいったん休止になるが、北大西洋条約機構(NATO)軍がロシア本土に反撃するような事態になれば、まさに第三次世界大戦の開始となる。

 その一方で想定されるシナリオでは、ロシア国内で反戦機運が高まり、プーチン政権打倒に市民たちが立ち上がる。民衆が地方の行政府の建物を包囲し、反政府運動がモスクワなどの都市に拡大する。16世紀以降、ロシアでは「皇帝信仰」が民衆の間に広まってきた。本物の皇帝ならば、民衆を不幸にすることはないという考えだ。今回の戦争では戦死者は10万人に及ぶという数字がロシア国内で飛び交っており、犠牲者の増加、さらに経済の疲弊が進めば、プーチン氏は本物の「皇帝」ではないとして全土で暴動が起こりかねない。

 ロシア国内の最新世論調査では「反戦」に賛成の回答者が65%に達した。プーチン政権の打倒でもって戦争はストップし、欧米からの軍事支援を受けるウクライナが領土を奪還する。

 ただ、ロシアの若者や起業家たちは開戦後、総勢970万人が国外に脱出している。ロシアの労働人口の13%に相当する深刻さであり、2年後には国内総生産(GDP)が30%も激減するとの予測が報じられている。戦後のロシア社会は、「暗黒の時代」を迎える。あまりにも代償の大きな戦争となるであろう。

  ◇ ◇ ◇ 

中村逸郎(なかむら・いつろう)

1956年、島根県生まれ、87年学習院大学大学院博士後期課程単位取得退学、博士(政治学)、モスクワ国立大学とロシア連邦科学アカデミー「国家と法研究所」に4年間留学、島根県立大学助教授をへて、2001年筑波大学社会科学系助教授、07年人文社会系教授、国際総合学類長を歴任し、22年定年退職、現在筑波大学名誉教授。22年5月、ロシアのウクライナ侵攻に伴うロシア政府による日本への報復措置によって、ロシア連邦への入国を恒久的に禁止された。

主な著書に『ロシアを決して信じるな』(新潮新書)、『シベリア最深紀行―知られざる大地への七つの旅』(岩波書店)、『ろくでなしのロシア―プーチンとロシア正教』(講談社)、『ロシアはどこに行くのか―タンデム型デモクラシーの限界』(講談社現代新書)、『虚栄の帝国ロシア―闇に消える「黒い」外国人たち』(岩波書店)、『帝政民主主義国家ロシア―プーチンの時代』(岩波書店)、『ロシア市民―体制転換を生きる』(岩波新書)、『東京発 モスクワ秘密文書』(新潮社)

(2023年1月16日掲載)

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