昨年7月、参院選期間中に起きた安倍晋三元首相銃撃事件は永田町の景色を一変させた感がある。安倍氏の急死で生じた「権力の空白」は今も埋まらず、オウンゴールの連発で迷走を続ける岸田文雄政権を前に、野党側も明確な対立軸を打ち出せずにいる。不透明感を増す政局の行方を、岸田政権発足時から定点観測を続けてきたノンフィクション作家の塩田潮氏に占っていただいた。(時事ドットコム編集部)
耐用年数10年を超えた自民党政権
2023年が始まった。自民党政権の復活は12年12月26日で、満10年が過ぎた。当時の石破茂幹事長が後にインタビューで「何があっても最低10年は政権を維持しなければ」と語った。その言葉が今も耳に残っている。石破氏は「自民党政権の賞味期限は最低でも10年」と唱えたが、そのとき、復活した自民党政権の耐用年数も10年かも、と勝手に思った。
耐用年数の10年目という場面で政権を担っているのが現在の岸田文雄首相である。ところが、22年9月、内閣支持率の低迷が始まった。時事通信調査で、8月は44.3%だったのに、9月は32.3%、10月に27.4%に落ちた後、12月までずっと30%以下が続いている。
岸田首相は21年10月の就任後、衆参の選挙を乗り切った。「与党1強」を維持し、政権基盤は盤石のように見えるが、実際は青息吐息で、賞味期限切れ寸前という見方も多い。
就任以来、22年7月の参院選までの10カ月は、計画どおり安全運転第一で、「不挑戦・課題先送り」に徹した。参院選後に初めて「政権の自前走行」に踏み出した途端、「裸の実力」が露呈した感がある。掲げた「新しい資本主義」は生煮えの看板倒れ、政権運営力も危機対応力も未熟で、首相としての条件と資質を疑問視する国民が急増した。
宏池会出身首相の巡り合わせ
岸田首相が安全運転第一を続けていた22年前半、皮肉にも内外で「戦後初」という大きな異変が発生した。「内」では戦後初の元首相射殺事件、「外」では第2次世界大戦後初の核兵器保有大国の隣国軍事侵略となるロシアのウクライナ侵攻が起こった。
過去に同じく最大派閥の長だった田中角栄元首相が突然、病気で永田町から姿を消し、自民党内の権力構造が大きく変化するという事例もあったが、誰も予期しなかった暗殺・退場による「権力の空白」と、以後の政権の漂流は、初めての出来事である。
岸田首相のウクライナ危機との遭遇も、不思議な歴史の巡り合わせと背中合わせだ。岸田首相は1993年退任の宮沢喜一元首相以来、28年ぶりの「宏池会首相」である。「保守本流・経済重視・軽武装」が理念の派閥・宏池会(岸田派)の会長として、池田勇人、大平正芳、鈴木善幸、宮沢の各氏に次いで5人目の首相となった。
歴史の巡り合わせとは、安全保障問題で伝統的に「平和外交・リベラル」が基本路線の宏池会の首相が、なぜか旧ソビエト連邦・現ロシアによる「安保危機」とぶつかるという因縁だ。古くは62年に旧ソ連がキューバ危機を引き起こしたとき、日本は池田首相だった。79年のソ連のアフガニスタン侵攻は大平首相時代に始まった。宮沢首相の91年、ソ連が崩壊してウクライナが独立した。さらに岸田首相の2022年にウクライナ戦争が勃発した。
現実主義か、場当たり対応か
岸田首相は安倍晋三内閣の時代、専任外相として戦後最長在任記録を残した。その経験から、自身の武器は「岸田外交」という自負がある。他方、17年暮れ、インタビューしたとき、「軽武装、経済重視が宏池会の理念と言う人がいるが、その時代に徹底した現実主義を貫いた結果と思っている。イデオロギーや主義主張にとらわれず、時代の変化に応じて徹底した現実主義で」と自ら語った。
「自前走行」に転じて5カ月後の22年12月16日、岸田首相はウクライナ危機や中国の膨張主義への備えなどを視野に、戦後の防衛政策の大転換を決めた。国家安全保障戦略(NSS)など、安保3文書を閣議決定し、敵基地攻撃能力(文書では「反撃能力」)の保有と、向こう5年間の防衛費の 1.5倍増への拡大などを明記した。専守防衛による平和主義が基本方針だった戦後の安保政策を大きく変更する決断を行った。
首相にすれば、自身の武器の「岸田外交」と、宏池会流の「時代の変化に応じて徹底した現実主義」に基づく対応、と自任しているのかもしれない。対して、一方で現実主義という名の無原則の状況順応主義、実態対応優先の後追い型政治という批判も強い。
岸田流の現実主義政治は、安保や防衛の問題に限らず、政権運営と各種の政策決定で、場当たり主義というマイナス面が色濃く表れる形となっていると映る。政権漂流は「権力の空白」の下での首相の空念仏と空振りによる空回りが原因ではないか。
政権の空転が続くのは、実質的権力を掌握していない「空洞首相」という素顔が露呈した点が大きいと思われる。岸田首相は就任前、自民党国会対策委員長、外相、政務調査会長などを経験したが、政権運営と与党操縦の中枢を担う内閣官房長官、官房副長官、自民党幹事長はすべて未体験だった。1960年代以降の21人の自民党首相では、超短命だった宇野宗佑氏、「自民党をぶっ壊す」と言った小泉純一郎氏と岸田氏の3人だけだ。
岸田流政治は霞が関の官僚機構への依存が目立つ。官僚主導型は宏池会政治の特徴という側面だけでなく、岸田首相の場合、本質的に政権運営や権力行使の実質に対する理解が乏しいのも影響しているという分析もある。その結果、国民の間に「期待外れ、役立たず、ご用済み」という失望感が広がったのが支持離れの要因と見て間違いない。
1998~2000年に在任した小渕恵三元首相は「空洞首相」という冷評を逆手に取って、重心の低さを武器に何でものみ込んで実績を上げ、「真空総理」と評判になった。岸田首相は23年、「空洞首相」の壁を克服して長期政権の基盤を確立できるかどうかの正念場だ。
2度あることは3度ある?
一方、野党側も10年ぶりというこの政権漂流を見逃さなかった。長らく「水と油」だった野党第1党の立憲民主党と第2党の日本維新の会が、22年秋の臨時国会で「呉越同舟」の国会共闘に舵(かじ)を切った。野党側には「非自民・非共産」による勢力結集を待望する声も強いが、将来の選挙共闘を含めた新野党体制作りは簡単ではない。
国民の間には、実際には「政権交代可能な政党政治の復活」を望む声は小さくないが、現実には「自民1強」の突破、つまり自民党の過半数割れが生じない限り、政権交代は起こりえない。それには野党側による与党分断の成否がかぎとなる。
実は今、分断の起爆剤となりそうな大きなテーマが目の前に横たわっている。安保政策、それと背中合わせの防衛予算と財源としての増税対策、その根幹の憲法問題の3点だ。
そんな潮流の中で、最も気になるのは岸田首相の23年の取り組みである。真っ先に必要なのは政権の立て直しだ。危機突破策として、23年1月の通常国会開会前の内閣改造説、一点突破で政局転換を図るための衆議院の「リセット解散」説がささやかれている。それどころか、4月の統一地方選挙前の首相交代説という憶測も流れる。
実際には衆参与党多数という形を手にしている岸田首相は、奇手奇策は選択せず、おそらく「忍」の一字で、当面の課題を処理しながら、5月開催の広島サミット(主要先進国首脳会議)に臨み、それを転機に再浮上という正攻法で危機突破を図る作戦だろう。最大の問題は、民意がどこまで気長に岸田首相に政治を託し続けるかだ。
「政治の節目の年」という意味で、23年はもう一つ、自民党の野党初転落の1993年から数えて30年目に当たる。その間、自民党は野党を2度、経験した。「2度あることは3度ある」という言葉があるが、23年以降、3度目の下野が起こるかどうか。
岸田首相が「現実主義」という名の下で、表面を糊塗(こと)するだけの後追い・先送り政治に終始するなら、民意は本気で「政権交代可能な政党政治の復活」に動きだす可能性がある。「2度あることは3度」で、3度目の自民党下野という展開もゼロとは言い切れない。
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(2023年1月4日掲載)