ひと昔前に政界で話題となった「オールフォーオール」(皆が皆のために)というフレーズを覚えているだろうか。消費税増税などを通じて介護や保育、高等教育を無償化するとの主張だ。看板政策に掲げた当時の民進党が2017年秋に分裂したことに伴い、フェードアウトしていった。
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だが、その生みの親だった慶応大の井手英策教授(50)が改めて唱える「ベーシックサービス(BS)」論が、今、永田町や霞が関で静かに注目を集めている。増税による福祉サービスなどの無償提供を訴え続ける井手氏に、理想とする社会・経済・政治像を聞いてみた。(時事通信政治部 纐纈啓太)
【目次】
◇公明党が「共鳴する考え」
◇「年収360万円で子ども3人」を
◇「極端に走らない覚悟」
◇「中庸」のカギは財源論
◇「終わった人間」の使命
公明党が「共鳴する考え」
昨年9月に東京都内で開かれた公明党の定期党大会。この場で井手氏の名が登場したことは、政官界の関係者を少なからず驚かせた。
石井啓一幹事長は党の活動方針を示す「幹事長報告」で、日本の高齢化ピークと見込まれる40年に向けた社会保障改革を盛り込む「2040年ビジョン」の策定を表明。「BSの考え方などを踏まえて検討していく」と説明し、「井手教授によると、BS論は教育、医療、介護など不可欠なサービスを無償化し、負担を皆で分かち合う。公明党の『大衆福祉』の理念とも共鳴する考え方だ」と付け加えた。
実は、公明党は4年ほど前から、井手氏との意見交換を定期的に続けてきた。
「話を聞きたいと言われれば話す。立憲民主党からも国民民主党からも呼ばれた。このところ一番回数が多いのは公明党です」。昨年12月、研究室で数年ぶりに会った井手氏はそう説明してくれた。
自民党議員とも交流があるほか、民進党代表だった国民・前原誠司元外相とは折に触れて連絡を取り合う。立民議員との会合にも足を運ぶ。各種寄稿、講演などの依頼は引きも切らないといった様子だ。
「年収360万円で子ども3人」を
井手氏が展開するBS論は、「経済成長最優先」「財源としての国債大量発行」といった自公政権の政策の潮流とは真逆の内容に映る。
経済見通しについては、異次元とも称される金融緩和を伴ったアベノミクス下でも「実質GDP(国内総生産)成長率は年1%程度だった」ことを引き合いに、「70~80年代のような年率4%成長などはもう不可能だ」とみる。低位成長が常態化した日本社会においては、「経済成長で所得・貯蓄率を上げ、生活保障は自己責任で、というモデルが破綻している」と指摘する。
そこから導き出す方向性は、「年収180万円同士のカップルでも、子どもが3人いて大丈夫という社会をつくろう」というものだ。
日々の暮らしや人生に密接な医療、介護、子育て、大学教育、障害者福祉といった施策をBSと位置付け、無償でサービスを提供。財源は消費税を柱とする増税で賄う。消費税の税率は段階的にさらに10%引き上げ、「BSに6割、財政健全化に4割。6対4の比率で使っていけばいい」と主張する。
「極端に走らない覚悟」
歳出カットを伴う財政健全化でもなければ、専ら国債発行頼みの積極財政路線でもない。この点が井手氏の独特の立ち位置だろう。
自民党内などで根強い支持を集める現代金融理論(MMT)については、「財政を膨張し続ければハイパーインフレになり、経済は破綻する」と明確に批判的な立場だ。野党が軒並み主張する消費税減税は、「所得を増やして不安に備えるという前提。新しい社会モデルに全然なっていない。消費税の減税は購買力のある富裕層ほどお金が返ってくる。大きな見当違いです」とばっさり切る。
無論、反発もある。財務省幹部は「政策というより思想だな」と皮肉交じりに評し、立民の若手議員は低所得者ほど税負担が重くなる消費税の「逆進性」に関し、「井手氏が答えていない」と話す。井手氏本人も「MMT支持者や左派からはののしられ、学者ではなく扇動者だと言われたこともあります」と苦笑を浮かべる。
それでも与野党からアプローチが途切れない理由は何なのか。交流のあった自民党議員に尋ねると、こういう答えが返ってきた。「アカデミズムから出て社会への問題意識を訴えつつ、極端に振り切れず現実的な路線を探ろうとする姿勢に覚悟を感じる。主張を聴いてみたいという気になる」。
「中庸」のカギは財源論
実際、井手氏の現状に対する危機感はひときわ強い。MMTや消費税減税といった世論へのインパクトが強い政策に走りがちな「極端主義」が「明らかに今の政治には存在している」と懸念を示し、「言葉の巧みさで競い合う極端主義を排し、『正しい中庸』を探っていくのがあるべき政治の本質だと思う」と話す。
政治をこう位置付ける井手氏にとって、カギとなるのが財源論だ。「何が社会に必要なものか。そのために必要な財源を考え、どんな税をどのくらいの税率で、どういう人たちに負担をお願いするか皆で真剣に話し合っていく中で、両極端の主張の間の中庸を探っていく。これが財政民主主義という考え方です」。
政府は昨年末、駆け足でGDP比2%程度への防衛費増額を決定。新型コロナウイルス禍の中では、かつてない規模で国債発行による現金給付が繰り返された。こうした政界の動きは、井手氏の目に「民主主義の本質に関わる危機」が近づいていると映る。
「議論もせず、どんぶり勘定で防衛費を倍にしようと言っているだけ。これは最近の日本政治に通底する傾向です」
「膨大な国債を押し付けられる今の子どもや未来の子どもたちはその意思決定に関わることさえできない。民主主義が息絶えつつあるということ。こんなことは絶対にだめですよ」。井手氏の口調は厳しい。
「終わった人間」の使命
ブレーン役を務めた民進党は、小池百合子東京都知事率いる希望の党への合流騒動を境に、混乱の中で事実上解党した。「僕の敗北でもある。学者生命を賭けて政治に身を投じ、結果は出た。僕はもう終わった人間なんです」。今後、特定の政党に肩入れする気は一切ないと言う。
井手氏が「敗北」と総括する一方で、「オールフォーオール」で掲げた幼保無償化は、安倍政権がほぼ抱きつく格好で19年秋に実現させ、野党からは今、大学教育無償化を求める声が絶えない。政策論議に及ぼした影響は、決して小さなものではない。
「もし最後の仕事があるとすれば、税の見方を変え、財源論をきちんと社会に根付かせること」。そう考える井手氏は、「今こそ『ばらまき』か民主主義かの戦いであり、与野党から財源論を直視する若手が出て来なければ日本の政治は終わる」とみる。
インタビューを終えて井手氏の研究室を去ろうとした際、教え子である駆け出しの研究者が入ってきた。この後、数人で研究会を開くという。「あと5年もしたら彼らが社会で必ず発言するようになりますよ」。最も熱っぽく語ったのはここだった。
(2023年1月20日掲載)