中国の駐米大使から外相に大抜てきされた秦剛氏が解任された。在任わずか7カ月と、中国共産党政権で任期が最も短い外相となった。理由については諸説あり、多くの謎が残っているが、いずれにせよ、秦氏を重用した習近平国家主席が重要人事の混乱を露呈したことで政治的打撃を受けたのは間違いない。(時事通信解説委員 西村哲也)
不倫?スパイ?
秦氏は6月25日、ベトナム、スリランカ両国外相やロシア外務次官に会った後、姿を見せなくなり、7月25日に全国人民代表大会(全人代=国会)常務委員会で外相の任を解かれた。形式上は通常の閣僚交代手続きで、他の人事と同様、理由の説明はなかった。
中国外務省報道官は一時、秦氏が健康上の理由で国際会議を欠席すると説明したが、その後、理由の説明を避けるようになった。中国では、高官が重病になっても公表せず、公の場に出てこないまま退任したり、死去したりすることがあるが、秦氏は解任後、外務省公式サイトの「歴代外相」欄から名前が削除されるなど不可思議な点があり、病気が理由とは考えにくい。
このため、在外中国人や香港人などがさまざま説を触れ回っている。まず出てきたのは不倫説。相手は、最近まで米国に住んでいた香港フェニックス・テレビ所属の女性ジャーナリストとされる。しかし、中国の腐敗官僚が不倫で首になることはない。不倫が問題視されるケースがあっても、それは口実にすぎない。中国の「反腐敗闘争」は不正を理由に政敵をたたくのが主な目的なのである。そもそも、不倫を理由に腐敗官僚を処分していたら、切りがない。
また、規律違反のあった共産党員は通常、党規律検査委の調査対象となって事実上失脚し、その後、公職を解任される。秦氏は規律違反調査の発表がないまま更迭されている。
スパイ絡みの説もある。前出の女性ジャーナリストは米英のスパイで、秦氏から情報を入手していたというのだ。ロシア当局がこの事実をつかんで、中国側に伝えたという話もある。この説によれば、4月から彼女が所在不明なのは、中国で拘束されたからということになるのだろう。事実なら外相更迭に値するかもしれないが、この種の話を外部から確認するのは極めて難しい。
ただ、香港の関係者によると、この女性ジャーナリストは実際には既にフェニックス・テレビを離れている。スパイ説の発信者たちは彼女の現状を正確に把握していないわけで、そうなると、スパイ説自体が疑わしくなる。
また、秦氏は駐米大使時代、米国に留学していた中国軍高官の息子による軍事機密漏えいを知りながら、本国に報告しなかったとのうわさも流れている。だが、中国軍と外務省は全く別系統であり、仮にそのようなことがあったとしても、軍の関係機関、もしくはスパイ防止を担う国家安全省の問題であろう。
8月2日付の香港紙・明報によると、この高官に息子はおらず、娘はいるが、米国留学はしていないという。
「戦狼外交」反対説も
中国の国政諮問機関である人民政治協商会議(政協)の委員を務めたことがある香港の実業家で、論客として知られる劉夢熊氏は秦外相解任について、「戦狼外交」の親ロ反米路線に反対したからではないかとする論文を発表した。
劉氏は根拠として、秦氏が(1)駐米大使時代、「中ロ関係に上限はない」という本省の見解に反して「中ロ間の協力にも限界はある」と公言していた。(2)外相就任直後、戦狼外交官の典型だった趙立堅外務省報道官を左遷した。(3)「ウクライナに対するロシアの侵略」との文言を含む今年4月下旬の国連総会決議に賛成票を投じさせた─ことなどを挙げた。
ちなみに、(1)の発言はフェニックス・テレビによるインタビューでの発言で、取材したのは前出の女性ジャーナリストだった。
確かに中国はウクライナに侵攻したロシアを事実上擁護しつつも、微妙に距離を置いているが、それは最高指導者である習近平国家主席の判断だ。戦狼外交の否定ではない。また、外相を含め、中国の閣僚は事務レベルの官僚であり、政策決定権はない。
「中ロ関係に上限はない」の発言者として最もよく知られたロシア通の楽玉成筆頭外務次官が昨年6月、左遷されるなど、対ロ政策を巡る内部対立を示唆する動きはある。しかし、習主席は必ずしもロシア一辺倒ではない秦氏の言動を知った上で外相に起用したはずなので、それを理由に解任するのは矛盾がある。
組織掌握力に疑問
楽氏の場合は、中国がプーチン大統領に入れ込み過ぎて、予想外のウクライナ開戦後に外交面で一時苦境に陥ったことの責任を問われた(もしくは、押し付けられた)とみられる。
政策に関する責任追及で更迭されたといわれる高官としては、楽氏以外に新疆ウイグル自治区党委員会書記だった陳全国氏がいる。陳氏は少数民族のウイグル族を徹底的に弾圧する習主席の路線を忠実に実行したが、新疆からの輸入を全面禁止する米国の新法がバイデン大統領の署名で成立した直後、唐突に左遷された。いずれのケースも「トカゲの尻尾切り」だったと思われる。
もし秦氏が同じケースだとすれば、尻尾切りを強いる圧力はどこから来たのか。ウクライナ戦争を巡って習政権が中立を装い、ロシアへの全面的支持に踏み切らないことについて、プーチン政権から不満の声が伝わっているのかもしれない。しかし、習政権のこうしたスタンスは秦氏の外相就任前からのもので、秦氏が始めたわけではない。
また、戦争で疲弊したロシアと中国の力関係は逆転して、ロシアは一部の欧米メディアや当局者から「中国の経済的植民地」などとやゆされているほどだ。そのロシアからのクレームが習主席に重要閣僚解任を強いる圧力になるだろうか。もしそうだとすれば、滑稽な話だ。
習政権内部に、ロシアからの文句を利用して秦氏を攻撃する人々がいてもおかしくないいが、習主席に外相更迭を迫るとなると、非常に大きな政治力が必要になる。最有力長老だった江沢民元国家主席は既に他界しており、胡錦濤前国家主席は健康状態が悪く、政治活動はできないとみられる。現最高指導部メンバーはいずれも習主席の助手のような存在でしかない。となると、習主席は大した圧力も受けていないのに、独りで思い悩んで混乱しているのだろうか。
全人代常務委には上級閣僚である国務委員を解任する権限もあるが、なぜか秦氏はいまだに国務委員のポストを維持しており、問題はまだ決着していない。外相の後任も通常の人選ができず、今年70歳の王毅氏が外相に復帰するという異常事態となっている。習主席が最終決定を下せないということであろう。
3期目に入った習主席はワンマン体制を確立したといわれてきたが、実際には外務省という政府の一部門すら完全に掌握していないことがあらわになった。「軍と同様、外務省のように専門性の高い部門のコントロールは習主席にも難しい」(香港親中派筋)との指摘もある。
(2023年8月4日)