香港居留権を持つ米国人が中国でスパイとして無期懲役の判決を受けた。米国で長年、親中派の有力者として活動してきたのに、なぜ中国当局に捕まって重刑となったのか、その本当の身分は何なのか。公式には「罪状」が全く明らかにされておらず、事件は謎に包まれている。(時事通信解説委員 西村哲也)
三つの身分証
中国江蘇省蘇州市の中級人民法院(地裁)は5月15日、以下の裁判の結果を公表した。
一、被告は梁成運(英語名=ジョン・シンワン・リョン)。男性。1945年5月1日生まれ。香港恒久的住民身分証、香港マカオ住民内地往来通行証(いわゆる回郷証)、米国旅券を持つ。
一、梁はスパイ活動に従事していた疑いがあったことから、刑法と刑事訴訟法の関連規定に基づいて、蘇州市国家安全局が2021年4月15日、強制措置を取った。
一、蘇州市中級人民法院は2023年5月15日、スパイ罪で無期懲役、政治権利終身剥奪、個人財産50万元(約980万円)没収を言い渡した。
地方の国家安全局は形式上、地方政府の一部だが、実質的には、スパイ防止を任務とする中央官庁の国家安全省が指揮している。梁氏は何らかの事情で訪中したところ、蘇州市国家安全局に拘束されたとみられる。
無期懲役は刑法が定めるスパイ罪の最高刑。適用するケースは少なく、梁氏の罪状は単なる機密情報の違法収集や漏えいなどではないことが想像できる。
梁氏の三つの身分証明書から、香港居留権、中国と米国の国籍を持っていることが分かる。香港居留権は戸籍に当たる。つまり、法律上の香港人である。このため、梁氏は香港では「米国籍を持つ香港人」として報じられている。
なお、同法院はこの三つの身分証明書の番号まで明らかにして、梁が複数の法的身分を持つことを強調した。中国は自国民の二重国籍を認めていないので、奇妙なことだが、香港・米国絡みの事件であることを示唆したかったのだろうか。
中台双方に協力説
香港の治安当局について詳しい消息筋によると、梁氏は香港生まれで、子供の頃に米国へ移住。米国籍を取った。中国の統一戦線部門に協力していたが、その一方で、同部門の米国華人・華僑社会における活動状況を台湾当局に報告。台湾はこれを米国の関係当局に伝え、米当局はその情報に基づいて、中国の米国での統一戦線工作について把握し、捜査もしていたという。
事実とすれば、梁氏はいわゆる二重スパイだったことになる。それによって中国側が受けた打撃は大きかったと判断されたことから、無期懲役という重い刑になったのだろう。
ただ、これらの情報は中国治安当局の見解とみられ、全てが事実なのかどうかは分からない。そもそも、単に米国で親中派有力者として熱心に活動していただけの梁氏を中国当局が勝手に「協力者」と見なしていたのかもしれない。
なお、香港の鄧炳強保安局長(閣僚)は5月15日、地元メディアに対し、梁氏が拘束された時、中国側から通報があったと説明。李家超行政長官は翌16日、梁氏の事件について「国家の安全に関するリスクが社会の中に潜在していることを示す」と語った。
しかし、前出の消息筋は「梁氏の事件と香港における国家安全保障は何の関係もない」と述べ、李長官は同事件を利用して危機感をあおっているだけだと解説した。
国家安全省の台頭
一つ間違いないのは、習近平政権下で国家安全省のプレゼンスがどんどん大きくなっているということだ。前国家安全相の陳文清氏は、習近平国家主席(党総書記)率いる党中央国家安全委の弁公室副主任(事務局次長)を兼ね、同委員会運営の事務を事実上取り仕切った。習氏の安保担当補佐官のような役割を果たしたと言ってよい。昨秋の第20回党大会で陳氏が国家安全相経験者として初めて党指導部の政治局入りしたのは、習氏の意向だったと思われる。
陳氏は政治局員として党中央政法委書記に就任し、国家安全省だけでなく、警察を管轄する公安省、最高人民検察院(最高検)、最高人民法院(最高裁)などの治安関係機関全体を統括する権限を持った。国家安全相経験者が中央政法委のトップになったのも初めてである。習政権の政策は今後、「国家安保」要因の影響がますます強くなっていく可能性が高い。
(2023年5月24日掲載)