「アベノミクス」の実績
安倍政権を評価する人々にとって、まずは「アベノミクス」と呼ばれた経済政策の実績が、大きな評価材料の一つとなっている。「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「成長戦略」を「3本の矢」と称して、デフレ経済からの脱却を目指した。
前回指摘した通り、2001年に「デフレスパイラルの入り口にある」と宣言され、それ以降もゼロ金利政策と量的緩和策が継続された。しかしデフレ脱却は実現せず、日銀は政財界から金融緩和が不十分だと批判されていた。11年9月、当時の日銀総裁・白川方明がその批判に対し、記者会見で「明らかに事実に反する」と色をなして反論する一幕もあった。
安倍は12年12月に第2次政権をスタートさせるが、「物価目標2%を達成するまで大胆な金融緩和を行う」ことを公約としていた。それまで日銀が慎重な姿勢を示していた「インフレターゲット論」の導入である。13年には日銀総裁を、任期途中の白川からリフレ派の黒田東彦に交代させ、「黒田バズーカ」と呼ばれる異次元の金融緩和を実行させたのだ。
これにより、12年11月半ばまで1ドル=70円台だった歴史的な円高水準は是正され、円安が進んだことは周知の通りである。輸出産業を中心に企業業績が回復し、株価も上昇した。新型コロナウイルスの感染が拡大する直前まで、憲政史上最長の政権を実現した自信もあってか、安倍の発言は明るい未来の予言に満ちていた。
「少子高齢化が進む中でも、アベノミクスによって支え手が500万人増えた結果、将来の年金給付に係る所得代替率は改善しました」(19年12月9日の記者会見)
「アベノミクスによって女性や高齢者が働き始め、年金の支え手が500万人増えた結果であります。政策次第で皆さん、年金は増やすことができるんです」(19年12月13日、内外情勢調査会での講演)
「政権を奪還し、3本の矢を放ち、正社員の有効求人倍率が史上初めて1倍を超え、一人に一つ以上の正社員の仕事があるという真っ当な経済を取り戻すことができました」(同)
そして、既に世界各地でコロナ感染が広がり始めていた20年1月になっても、その自信は揺らぐことなく、こう述べていた。
「『日本はもう成長できない』。(第2次政権が発足した)7年前、この『諦めの壁』に対して、私たちはまず、3本の矢を力強く放ちました。(中略)わが国は、もはや、かつての日本ではありません。『諦めの壁』は完全に打ち破ることができた。その自信と誇りと共に、今ここから日本の令和の新しい時代を皆さん、共に切り開いていこうではありませんか」(20年1月20日、通常国会での施政方針演説)
今となっては無邪気にも聞こえる演説だが、このときまで、アベノミクスの評価が上々だったことも確かだ。
浴びせられた「冷や水」
公約としていた2%の物価上昇も実現していなかったし、実質賃金の伸び悩みや格差拡大に対する批判もあった。しかし、われわれメディアも含め、安倍の自画自賛の演説に正面から問題提起できなかったことも事実だ。その理由は改めて検証するが、安倍が誇っていた経済的な成果に、結果として冷や水を浴びせ掛けたのが、岸田が発足させた「新しい資本主義実現会議」の資料だった。
これは内閣官房のホームページにアップされているので、ご覧になってほしい。昨年11月26日に開かれた第3回会合に参考資料として提出された「賃金・人的資本に関するデータ集」は、賃金の動向をめぐるデータを多く掲載しながら、こう指摘している。
「先進国の1人あたり実質賃金の推移を見ると、1991年から2019年にかけて、英国は1.48倍、米国は1.41倍、フランスとドイツは1.34倍に上昇しているのに対して、日本は1.05倍にとどまる」(12ページ)
実質賃金はかろうじて伸びてはいるが、伸び率があまりにも低いことを示しているのだ。人々の生活を豊かにするものは賃金であり、世帯の所得だ。その所得が消費に回り、商品が売れ、企業収益が増え、事業が拡大し、さらに賃金が増える。このプラスのサイクルが貧弱だったということだ。
こうした状況は、以前にも指摘されていたが、安倍はこう反論していた。
「民主党政権時代には、3年間に59万人、正社員が減っているわけでありますが、われわれの政権におきましては、正社員は増える方向に転じております」(16年1月8日の衆院予算委員会)
これはその通りだ。正社員数は減少傾向にあったが、2015年に8年ぶりにプラスに転じ、7年連続で微増した。
では正社員が増えているのに、なぜ1人当たりの実質賃金が伸びないのか。この点に関する安倍の説明はこうだ。
「景気が回復し、雇用が増加する過程において、パートで働く人が増えていくと、1人当たりの平均賃金が低く出ることになるわけでありまして、私と妻、妻は働いていなかったけれども、景気はそろそろ本格的に良くなっていくから働こうかと思ったら、働き始めたら、わが家の収入は例えば私が50万円で妻が25万円であったとしたら75万円に増えるわけでございますが、2人が働くことによって、2で割りますから、平均は、全体は下がっていくことになるわけでございます。(中略)安倍家の1人平均はいくらだという考え方自体は、正確に経済の実態を表していることにはならない」(同)
この説明もうそではない。日本の可処分所得は2000年を1とすると、18年までに1.13倍に伸びている(図1)。
ところが、これも先進各国に比べると伸び率が低過ぎる。米国は1.42倍、英国は1.34倍、ドイツは1.29倍、フランスは1.22倍だ。
伸びなかった所得と消費
先に紹介した「データ集」は、「(先進国では)可処分所得が伸びると、家計消費が伸びる傾向にある」と指摘する(16ページ)。ただ、日本は「可処分所得の伸びが十分ではないため」、家計消費が伸びないと分析されている。
家計消費は「1990年から2019年にかけて、米国は2.16倍、英国は1.90倍、フランスは1.55倍、ドイツは1.42倍になったのに対して、日本の家計消費は1.3倍にとどまる」(15ページ)。
では、なぜ可処分所得が伸び悩んでいるのか。安倍が言う通り、「2010年4~6月期から21年4~6月期にかけて、雇用者報酬は32.6兆円増加」しているのだ。しかしながら「税金、社会保険料の負担がそれぞれ6.7兆円、15.7兆円増加したため、可処分所得は13.9兆円増加」にとどまっている。6.7兆円は所得税増税に伴う増収分なので、消費税の増税分を乗せると、実際の可処分所得の増額分はもっと小さいという。
伸びなかった生産性
金融緩和政策だけで経済全体が成長しないことは、当初から指摘されていた。だからこそ「3本の矢」が必要だったはずだ。
円安・株高を実現してからも黒田自身が「規制緩和や制度改革によるイノベーションの促進で、労働生産性を上昇させることが何よりも必要」(16年11月17日の参院財政金融委員会)と強調していた。
「労働生産性」とは、「実質GDP(国内総生産)」を「就業者数×総労働時間」で割った数値であり、国の経済成長率を高めるためには、この生産性を向上させる必要がある。ではアベノミクスによって、この数値は上昇したのだろうか。
2021年10月26日に開かれた第1回「新しい資本主義実現会議」に提出された「参考資料(データ集)」には、企業が新しく生み出した金額ベースの価値、つまり付加価値を単位とした「付加価値生産性」の推移が示されている(図2)。これを見ると、日本は安倍政権の期間でも先進国で最低である。
安倍政権の経済ブレーンとして知られた元内閣官房参与の米エール大名誉教授・浜田宏一は、安倍の経済政策を「物価目標の未達は国民にマイナスではないので気にしないが、確かに、生産性の伸びが今一つといった不十分な面もある」(毎日新聞の21年11月12日付夕刊)と総括している。
浜田はコロナ禍前までに就業者数が増えたことを評価し、「アベノミクスの良い点も含め全てを否定する人に義憤さえ感じます」(同)と言うが、自ら指摘した「生産性の伸びが今一つ」だったことが、致命的に日本経済の成長を妨げているのではないだろうか。
「生産性革命」とは、安倍が掲げたスローガンの一つだ。17年11月の所信表明演説で、20年度までの3年間を集中投資期間とし、設備や人材への投資を力強く促すと表明した。
これも少しは伸びた。このわずかな伸びを安倍はアピールし続けたが、胸を張るほどの結果ではなかったことは、岸田政権の「新しい資本主義実現会議」が立証していると言えるだろう。
次回も引き続き「アベノミクス」の検証を進める。(敬称略)
【時事通信社「地方行政」2022年11月7日号より】
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菊池正史(きくち・まさし) 日本テレビ政治部長。1968年生まれ。93年慶応大大学院修了、日本テレビ入社。政治部に配属され、旧社会党や自民党などを担当し、2005年首相官邸クラブキャップ、16年政治部デスク。20年10月経済部長に転じ、22年6月から現職。著書に「安倍晋三『保守』の正体」(文芸春秋)、「『影の総理』と呼ばれた男」(講談社)
「戦後保守政治の裏側」シリーズはこちら。
(2022年11月22日掲載)