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「変わらない」産業構造とデフレスパイラル

2022年07月25日

怒りなき社会が放置する経済の停滞(3)
日本テレビ政治部長 菊池正史

グローバルな胎動

 前回は、1990年代にコストカットによる成長という日本経済の「神話」が崩壊し、2000年代の小泉純一郎政権から始まる景気回復が「偽り」といわれた背景を説明した。

 では、その頃、米国や他の先進国では何が起きていたか。これも言い古された指摘であることは百も承知だが、日本の産業構造が30年以上も本質的に変わっていない、変われない、変わらない理由を検証するために、あえて振り返っておきたい。

 日本では「失われた10年」となった1990年代に、米国では「ウィンドウズ」の普及をはじめ、情報通信という新たなIT分野で革新が進んでいた。シリコンバレーに象徴されるように、欧米の研究機関に莫大(ばくだい)な資金が投入され、大学も参加して事業密着型の研究が熱を帯びた。また、新興ハイテク企業が上場するナスダックにも過剰なまでの投資がなされた。ここからスタートアップ(新興企業)が育ち、後に「GAFA」(グーグル、アップル、メタ〈旧フェイスブック〉、アマゾン・ドット・コム)となるような芽が育っていたのである。

 IT技術は、新たな製品やサービスを創出するイノベーション(革新)のエネルギーとなっていた。ここでは工場や土地、機械といった有形の固定資産への投資よりも、研究開発による特許取得、マーケティング、ソフトウエアやデータベース(DB)開発、ブランド戦略、商品の管理手法など、目に見えない無形資産への投資が中心だった。そこで形作られる「プラットフォーム」に大量の情報が蓄積、分析され、巨大なサービス王国が拡大再生産されてきた。

 米国だけではなく、中国も2000年代からIT分野への研究開発などに莫大な投資を行い、プラットフォーム創出を急いだ。何といっても国内マーケットが巨大である。「物まね大国」などと批判されていたが、「まねる」が「学び」となり、ひしめき合うユニコーン(有力新興)企業がしのぎを削り、独自のサービスをつくり出すまでになった。「BATH」と総称される百度(バイドゥ=Baidu)、アリババ集団(Alibaba)、騰訊(テンセント=Tencent)、華為技術(ファーウェイ=HUAWEI)の 4社は、GAFAに匹敵する急成長を遂げている。

新たな「無形資産」投資

 グローバル化を目指した小泉構造改革の間も、日本では無形資産への投資が有形資産への投資を下回るという、古い投資構造のままだった。図1を見ても分かるように、米国は小泉政権期において無形資産投資が有形資産投資を上回っていた。

 もちろん、日本でも無形資産への投資は増えていた。バブル崩壊以降でも、2000年代終盤まで日本の研究開発投資額は米国には遠く及ばないものの、世界で第2位だった(図2)。実際にスーパーコンピューターの開発レベルは高く、ソフトウエアやDB開発にも相当な投資を行っていた。

 ただ無形資産投資の中でも、日本では人材育成や組織変革、マーケティング、ブランド力向上といった「経済的競争能力」への投資が貧弱であることが指摘されている。

 この投資は多様な人材を育成し、そうした人材が思う存分に活躍して成果を生み出せるよう、組織や考え方を変革するためのもので、「英国等、オーストラリア、アメリカといったアングロサクソン諸国で、経済的競争能力の割合が高い」(内閣府「11年度年次経済財政報告」)という結果が出ている。

 また日本の研究開発投資の効率性は、米国やドイツと比べて低いというのもマイナスの特徴だ。日本政府も「日本企業において研究開発を製品化に結び付けるプロセスが弱い」(同)と自覚しているのだ。

IT産業の「水平分業」

 そして新たなIT産業の勃興は、グローバル化による産業構造の変化に適合していた。よくいわれる「垂直統合型」から「水平分業型」へ、あるいは双方のハイブリッド型へのシフトである。

 古い基幹産業である電機や自動車の関連企業は、大企業傘下のグループで開発から部品調達、生産、販売までを担う垂直統合型だった。しかし、1980年代半ばから始まるIT革命の中で、主役となるパソコンメーカーが水平分業型の事業モデルへと転換していった。

 マイクロプロセッサー(超小型演算処理装置)、基本ソフト(OS)、アプリケーション開発など、生産過程を構成する多くの要素、つまり「モジュール」ごとに多数のベンチャー企業が成長し、専門的に技術を高め、組み立て・製造も特化されて、安くて良質な製品が生産されるようになった。それぞれの領域で新たな付加価値が創出され、参画する企業は世界的な競争を通じて労働生産性を高め、莫大な収益につなげていく仕組みだ。

 モジュールを組み合わせて作動させるためには、組み合わせのための共通ルールが必要となる。これが「標準インターフェース」である。世界に公開され、これに準拠した互換性のある製品を生産すれば、誰でもコンピューター市場に参入できる。

 このインターフェースを掌握し、世界的なプラットフォームを構築したのが米国のマイクロソフト社やインテル社であり、パソコン業界を長期にわたって独占的に支配することとなった。

 つまり「水平分業」の大前提は「グローバル化」である。優れたパートナー企業をグローバル市場から見つけ出すことが、優れた製品を早く安く生産するためには不可欠となる。そして、グローバルに展開する多様なパートナー企業とのコラボレーションやアライアンス(連合)が成功のカギとなるのだ。

「日の丸半導体」の凋落

 パソコンに使われている半導体の生産でも「水平分業」が進んでいた。80年代までNECや東芝、富士通など日本の半導体メーカーの売り上げは、世界シェアの50%を超え、「日の丸半導体」ともてはやされた。その頃は設計開発、ウエハー(基板)製造、組み立て、販売に至るまで、それぞれの企業が完結する「垂直統合型」だった。

 ところが、長期にわたり巨額な設備投資を要するため、90年代以降、米エヌビディア社のように設計開発に特化した半導体企業「ファブレス」は、台湾積体電路製造(TSMC)のような製造に特化した企業「ファンドリー」に、製造を委託するようになった。「日の丸半導体」メーカーは、このグローバルな水平分業に乗り遅れ、現在では世界シェアが10%以下に凋落(ちょうらく)している。

 経済産業省の資料をひもとけば、この凋落は「日の丸自前主義の陥穽(かんせい)」が原因とされている。つまり日本の企業が、自前の垂直統合生産にこだわったばかりに、各部門の切り出しや買収・統合が進まず、国際的なアライアンスに乗り遅れたということだ。

 もちろん、凋落の理由はこれだけではない。日本国内で顧客となるデジタル市場が未発達だったこと、メーカーの経営陣に長期的な投資構想が欠如していたこと、さらに、これは経産省自体が反省すべきことだろうが、国家的戦略に欠け、支援が貧弱だったことなども大きな原因だ。

 しかしながら、日本の半導体やIT機器に見られた垂直統合からモジュール化、水平分業への乗り遅れは、日本経済が臨機応変に「変われない」、あるいは「変わろうとしない」という構造的な問題を浮き彫りにしている。

笛吹けど踊らず

「変わらない」から同じような凋落が続く。

 小泉政権下である2000年代に入り、パナソニックなどが国内工場を増設したことは前回触れた。しかし同社は16年、液晶ディスプレーのテレビ向け生産から撤退。その他、東芝は18年にテレビ事業を中国企業に売却し、日立製作所も同年に国内販売から退いた。半導体と同様、モジュール化や水平分業への移行に失敗したことが大きな原因だと分析されている。

 「日本の研究や技術はすごい」「人件費が安く、日本の技術流出に依存する中国や韓国の製品は『安かろう悪かろう』で、クオリティーは日本製がまだまだ上だ」という慢心が当時、多くの日本人にあったことは否定できまい。

 しかし優れた商品を開発し、先行して市場に普及させても、やがて追随してきた外国製品に凌駕(りょうが)されて衰退するのが、日本製造業の悲劇的な傾向となってしまった。ITはもちろん、かつて日本が主導したエレクトロニクス製品も中国や台湾、韓国の企業に席巻されている。

「ブランド力やグローバルな営業力といった点では、韓国メーカーが急速に力をつけ、それらが本格的に開花して日本企業を脅かしたタイミングが2000年代半ばであった」(西澤佑介「液晶テレビ産業における日本企業の革新と衰退」)。また、中国メーカーは「ブラウン管テレビの時代から着々と製品開発力や営業能力、一定品質で大量生産できる製造技術力等を高めてきた」(同)と指摘されるように、日本が先陣を切った液晶テレビ産業では、いまだソニーが健闘しているものの、売り上げの上位に名を連ねるサムスン電子とLG電子は韓国、TCLや海信集団(ハイセンス)、スカイワースは中国の企業だ。

 中韓のテレビメーカーは生産能力と生産技術、開発スピード、消費者のニーズに合わせた製品の合理化など、既に総合力で日本のメーカーを凌駕しているのだ。小泉がいくら構造改革を叫んでも、日本企業の構造改革は進まなかったといっていい。「民間にできることは民間に」が小泉のスローガンだったが、その「民間」が既に硬直化していたということだ。

 日本経済の成長が鈍ったのは、政府による規制が強化されていて、自由な企業活動が制約されているからだといわれてきた。確かにそういう面も否定できない。しかし日本企業の場合、規制から解き放たれて自由になれば、組織が活性化して創造的になるかといえば、それは別問題だと考えた方がいいようだ。

第二の敗戦

 このグローバル化の潮流自体に抵抗する勢力もあった。米国が主導するグローバル化に追随することを「日本の敗北」と位置付け、日本独自の戦略による再興を願った勢力であり、論調である。1990年代後半に「日本第二の敗戦」と指摘したのは、保守論壇をリードした文芸評論家の江藤淳である。筆者も大学院時代に、客員教授として教壇に立っていた江藤から、米国が主体となった連合国軍総司令部(GHQ)による戦後の言論統制について学んだ。

 われわれ日本人の歴史観や思考様式などを形成する言語空間が、米国の検閲によって支配され、長い月日が過ぎた今でも日本は拘束されているというのが江藤の認識だった。言語を奪われないまでも、言葉によってものを考える人間が、「言葉の意味」を支配されることの恐ろしさを江藤は訴えていた。

 江藤は月刊「文芸春秋」の98年1月号で、グローバル・スタンダードとは「常に不完全な基準」であり、「その時パワーがあるもののデ・ファクト・スタンダードがグローバル・スタンダードと錯覚されるだけ」だと述べている。

 しかし、いまだに言語空間が欧米に支配されていることの帰結なのかもしれないが、日本は欧米が主導するグローバリズムの潮流に、あっという間に飲み込まれてしまった。多くの人々が「グローバル」という言葉をポジティブに捉え、その価値観に準じたのである。江藤はこれを「第二の敗戦」と呼んだのだ。

 戦争に負けた日本人にとって、経済とは「戦うことを許された唯一の戦場」だったはずだ。しかし「『第二の敗戦』において日本は軍事面においてのみならず経済的空間においても、旧連合軍の思うがままに操られている状態になっている」と、江藤は嘆いた。

 確かに、経済大国となった日本に対する貿易赤字大国・米国の圧力は強烈だった。「日の丸半導体」の凋落も、米国との半導体貿易摩擦でさまざまな規制を強いられた政治的敗北に起因する部分が大きい。これ以前も、またしかり。繊維に始まり、鉄鋼、テレビ、自動車と、日本の基幹製品はことごとく自主規制、数量制限、報復関税の対象となってきた。

 自由貿易を標榜(ひょうぼう)する米国が、規制圧力を正当化するための理屈が「日本異質論」だった。日本人は閉鎖的、集団主義的で、自由競争を拒んでいる。官民一体、労使一体の「日本株式会社」が安い商品で、欧米の市場に攻め込んでくる。この「異質な日本」の壁を破壊し、グローバル経済に組み入れなければならないという理屈である。

 これは欧米の世界戦略である。そのための洗脳であり、江藤が言う通り、「操り」でもあっただろう。だから「変わらない」「変わる必要がない」という保守勢力も存在した。しかし「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともてはやされた日本経済が、そのグローバル戦略と対峙(たいじ)し、巻き込まれた結果、成長が鈍ったことは否定できない。

「金融緩和が不足」という批判

「デフレスパイラルの入り口にある」

 これは2001年11月、小泉政権で経済財政担当相だった竹中平蔵の発言だ。物価が下落して企業の業績が悪化し、賃金が減少して消費が減退する。従って、さらに物価が下落するという負のスパイラルが始まっていた。

 この状況を受け、浮上したのが「インフレターゲット論」だった。同月の参院予算委員会で当時、自民党参院議員だった舛添要一が、物価目標を定めて金融緩和を続けるべきだと主張した。

 これに対し、当時の日銀総裁だった速水優は次のように述べている。

 「デフレ状況の中でインフレの目標をつくったりするようなことは、これは極めて適当でないし難しいことだ」

 日銀は06年にゼロ金利を解除し、08年のリーマン・ショックを受けて再度実施するなど、量的緩和を逐次的に繰り返した。

 しかし、デフレが解消されることはなかった。変わらぬ産業構造への問題意識より、「緩和不足だ」と日銀への批判が強くなって、徹底した金融緩和策を求める声が高まった。そこに登場してきたのが第2次安倍晋三政権である。次回こそ、その成果を検証していきたい。(敬称略)

【時事通信社「地方行政」2022年7月11日号より】

 ◇  ◇  ◇

 菊池正史(きくち・まさし) 日本テレビ政治部長。1968年生まれ。93年慶応大大学院修了、日本テレビ入社。政治部に配属され、旧社会党や自民党などを担当し、2005年首相官邸クラブキャップ、16年政治部デスク。20年10月経済部長に転じ、22年6月から現職。著書に「安倍晋三『保守』の正体」(文芸春秋)、「『影の総理』と呼ばれた男」(講談社)

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(2022年7月25日掲載)

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