いまだに「よく分からない」
前回(「地方行政」2021年3月25日号)、日本の社会から「怒り」が失われ、政治の劣化が放置されてきただけでなく、経済も停滞していると問題提起してから1年が過ぎてしまった。その間、政治は新型コロナウイルス対策に追われ、菅義偉政権は短期間で倒れた。いまだコロナ禍は収束せず、他の先進国と比べれば圧倒的に感染者や死者の数が少ないにもかかわらず、日本の経済回復は遅れている。
ワクチン接種の遅れや脆弱(ぜいじゃく)な医療体制、外食産業などへの長引く規制強化など、新型コロナに伴う理由は枚挙にいとまがないが、そもそも日本経済全体の基礎体力が衰え、回復への潜在力が弱小化しているのではないかと考えられるのだ。
岸田文雄政権が発足し、半年が過ぎようとしている。早速、3回目のワクチン接種で後れを取ってしまった岸田だが、看板理念である「新しい資本主義」で日本の活力を取り戻すことができるのだろうか。また、この看板を掲げる背景に何があったのか。久しぶりに筆を執りながら検証すると、そこからは、小泉純一郎元首相ら、戦後の保守政治に挑戦した勢力への、新たなアンチテーゼも見えてきた。【日本テレビ経済部長 菊池正史】
分かりにくい分配理論
「岸田さんがいう新しい資本主義って何のことだか、よく分からない」
とは、いまだによく耳にする指摘だ。
確かに具体的な目標が分かりにくい部分は多い。小泉の構造改革には「郵政民営化」、安倍晋三の「アベノミクス」には「異次元の金融緩和で物価上昇率2%」「国内総生産(GDP)600兆円」といった具体的な目標があった。
岸田も当初は、「新しい資本主義」は分配重視だと言って、金融所得課税の強化を打ち出した。日本の今の税制では「1億円の壁」と呼ばれているように、所得税の負担率が1億円を境に低下していく。株式譲渡益などで稼いでいる富裕層の金融所得からもっと税金を取り、貧困層へ分配しようという発想である。ところが、この政策に反応して日本の株価が下がってしまったため、この税制改革は首相就任直後に先送りされてしまった。
さらに、自民党総裁選に出馬したばかりの頃は「分配なくして成長なし」と言っていたのに、批判され始めたら「分配するためには成長してパイを増やす必要がある」と言いだした。「成長と分配の好循環」とも言うが、これは既に安倍政権が16年に打ち出したスローガンであり、二番煎じといわれても仕方がない。
分配の柱は賃金アップ
もちろん、この裏には安倍への配慮もあるだろう。総裁選では協力を当てにしていたものの、森友問題の再調査について触れて機嫌を損ねたこともあり、今の自民党政調会長である高市早苗を急きょ担ぎ出されてしまった。右派・タカ派の勢力を集め、それなりの影響力を見せつけられたし、今では同党最大派閥の会長である。「できれば敵にしたくない」という政治的な思惑があることは当然であろう。
しかし、岸田が発足させた「新しい資本主義実現会議」の資料などからは、明らかにアベノミクスの成果が不十分であったことが読み取れる。それは停滞する日本経済への危機感であり、その停滞に鈍感な人々、特に企業の経営陣に対して意識改革を求めるものだ。
21年11月8日、岸田は緊急提言を発表した。既に分配政策としての金融所得課税は消えているが、もう一つの柱として強調されていたのが賃金アップだ。「従業員に賃金の形で分配してはじめて、消費が拡大し、消費拡大によって需要が拡大すれば、企業収益が更に向上し、成長につながる」と強調している。
そして賃金をアップするため、デジタルトランスフォーメーション(DX)やグリーントランスフォーメーション(GX)の推進、スタートアップ企業の支援などを加速し、イノベーション(技術革新)の力を強化するとしている。
これにより「付加価値の高い新製品・新サービスの創出」を促進するとある。具体的に言えば、かつての「ウォークマン(ソニー社製)」「インスタントラーメン」から「ハイブリッド自動車」「ポケモン」に至るまで、「メード・イン・ジャパン」の新たな製品やサービスを生み出すことだ。
イノベーションできない日本企業
財務省発行の機関誌「ファイナンス」をめくっていたら、巻頭で副大臣の大家敏志が「日本が誇る『匠の技術』や『かゆいところに手の届くサービス』を世界に売り込むことで、『稼ぐ力』を取り戻し、世界の真ん中でもう一度輝く日本にしたい」と夢を語っていた(22年2月号)。
しかし、この夢も、日本が「匠の技術」や「かゆいところに手の届くサービス」を開発し、商品化できていないことの裏返しなのではないか。
近年、日本企業による新製品・サービスの創出は低迷している。経済協力開発機構(OECD)の12年から14年までの調査によると、新製品やサービスをマーケットに投入した企業の割合は、製造業ではドイツ18・8%、イタリア17・8%、米国12・7%、英国12・7%。対して日本は9・9%と低い数字だ。サービス業を見れば日本は4・9%。イタリア12・2%、英国10・1%、ドイツ9・0%、米国7・6%に比べると圧倒的に低い。
また、岸田の提言には「我が国の労働生産性(就業者一人当たりGDP)は2019年に7・5万㌦であり、G7諸国の中で最も低い」という現実も示されている。製造コストの何倍の価格で販売できているかを示す「マークアップ率」も、日本は低水準だと指摘している。
つまり日本では、価格が高くても売れるような新たな商品やサービスを生み出せていないので、労働生産性が上がらないというわけだ。
総務省の18年度「情報通信白書」に興味深い調査結果がある。日本の企業が情報通信技術(ICT)を活用し、どのような経営課題を解決するか調査したところ、「業務プロセスの効率化」が48・3%で、製品のイノベーションをはじめとする「ビジネスモデルの改革」の19・9%を大きく上回った。
日本の企業の約半分が、ICTを「コストカット」に利用しているということだ。つまり、日本の企業経営者の多くが労働生産性を上げようとする際、高く売れる新製品を開発して収益を得ようとするよりも、人員や給料を減らし、生産工程の無駄を排除するなど、コストカットを優先しているのだ。
しかし、この総務省の調査によると、ICTによる労働生産性の上昇効果は、コストカットの場合が1・1~2・5倍だったのに対し、製品やサービスの開発など付加価値向上に活用した場合は4倍に上ったという結果が出ている。
小泉構造改革批判
岸田は「付加価値の高い製品やサービスを生み出し、高い売値を確保できる付加価値を創造する」企業や産業構造をつくらなければならないと唱えている。
もちろん、付加価値を生み出すイノベーションを達成したからといって、多くの日本企業が賃金を上げるかどうかは分からない。引き続き内部留保が膨れ上がるだけかもしれない。
しかし、岸田の「高い売値を確保」しろという訴えは、十分な賃上げを可能にするだけの成長の見通しが立っていないという、お粗末な現状の裏返しなのだ。日本では2000年代以降、小泉構造改革とアベノミクスという二大経済改革が実施されたにもかかわらず、岸田が求めるような「付加価値の高い製品やサービス」を生み出すイノベーションは、不十分だったということだ。
まず、小泉構造改革について、岸田はこう述べている。
「一言で言うなら、小泉改革以降の新自由主義的政策を転換するということであります。(中略)規制緩和、構造改革の新自由主義的政策は、確かにわが国経済の体質強化、成長をもたらした。一方で持てる者と持たざる者の格差、分断を生んできました」(21年9月8日の記者会見)
岸田の批判的な視点は理解できるが、発言の内容は必ずしも的確ではない。なぜなら、構造改革によって日本経済の体質強化はなされていないし、成長も十分ではないからだ。また、格差は1980年代半ばから拡大していたが、むしろ小泉政権下ではその傾向に歯止めがかかっていた。ただ、小泉が是正しようとしなかったため、社会的分断への人々の意識を高めることになったという方が正解であろう。
経済改革より権力闘争
そもそも小泉構造改革は、戦後保守政治の支配構造に対する挑戦という色彩が強い。産業の民営化は80年代に長期政権を担った中曽根康弘が、米大統領のレーガンや英首相のサッチャーと足並みをそろえて加速させ、国鉄や公社の民営化を実現した。しかし、この頃はまだ元首相の田中角栄が率いる勢力が支配していた時代だった。
「闇将軍」と呼ばれた田中とその派閥の継承者たちが、水面下の根回しと調整で公共事業を牛耳っていた。国民から吸い上げた銀行の預貯金や郵便貯金が、政治や行政の統制・管理の下で公共事業に還流し、その事業にぶら下がる大企業から下請け、孫請けの中小企業までを潤した。まさに「大きな政府」であり、戦後経済を支えてきた「政官業」三位一体による「護送船団方式」という産業構造の骨格だった。
ところが90年代に入り、バブル経済の崩壊、山一証券や日本長期信用銀行の破綻に象徴される金融危機、大蔵省(現財務省)接待疑惑などで表面化した制度的廃退で、その骨格への信頼が大きく揺らぐこととなった。そこに、「自民党をぶっ壊す」と絶叫しながら登場したのが小泉だった。この古い経済構造をも支配してきた同党を「ぶっ壊す」と叫んだのだ。
古き支配構造の破壊
「民間にできることは民間に任せろ」と言って、道路公団や郵政事業の民営化を主張した。また、経済への政治や行政の統制を否定し、公共事業を削減したのである。さらにバブル崩壊以降、日本経済の足かせといわれ続けた不良債権の処理を急ピッチで進めた。そして古き政官業の支配者たちを、「抵抗勢力」として徹底的に攻撃したのである。
郵政事業の民営化法に賛成しなかった自民党議員を公認せず、「刺客」と呼ばれた対立候補を擁立して落選にも追い込んだ、2005年の「郵政選挙」は、われわれメディアをはじめ、多くの人々を熱狂させた。敵をつくり、同じ自民党であろうと情け容赦なく、テレビが映す衆目の前で攻撃する意外性・残虐性・透明性が、人々に強い刺激を与えたのだ。
まさにテレポリティクス(テレビ政治)であり、劇場政治だった。そこで獲得した高い支持率をパワーにして、不良債権の処理を急ピッチで進めたことは事実だ。郵政民営化法も成立させた。
政官業による古い産業構造を支配してきた抵抗勢力は、田中の継承者たちであり、彼らにとって郵政事業や道路は利権の牙城だった。郵便局を通して集められた預金や保険金は、第二の予算と呼ばれた財政投融資となって道路建設などの公共事業に還流した。この流れを牛耳っていたのが彼らだった。小泉はここにくさびを打ち込んだのである。
しかし、それで日本経済は成長し、人々は経済的に豊かになったのだろうか。次回以降、アベノミクスと併せて検証することとする。(敬称略)
【時事通信社「地方行政」2022年3月24日号より】
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菊池正史(きくち・まさし)日本テレビ経済部長。1968年生まれ。慶應義塾大大学院修了後、93年日本テレビ入社、政治部に配属。旧社会党、自民党などを担当し、2005年から総理官邸クラブキャップ。11年から報道番組プロデューサー、政治部デスク等を経て現職。著書に「官房長官を見れば政権の実力がわかる」(PHP研究所)、「安倍晋三『保守』の正体」(文藝春秋)などがある。
「戦後保守政治の裏側」シリーズはこちら。
(2022年4月7日掲載)