ソ連の影響を色濃く残す元社会主義国
ウランバートルには格別な思いがある。社会主義体制を放棄して間もない1990年代前半、バックパックを背負って親友と真冬のモンゴルを旅した。3ドルもあれば熱いシャワーのある宿に泊まれたが、乾燥した内陸国であるがゆえ、魚介類はもちろんのこと野菜も不足しており、毎食どの食堂に入っても羊肉ばかりで滅入(めい)ってしまった。モンゴルの人々は日本人とよく似た顔だちをしている。生活は豊かでなくとも誇り高く、大変清潔である。貧乏旅行の学生にも親切に接してくれて、食事の面を除けば良い印象しか残っていない。
【礒﨑敦仁のコリア・ウオッチング】前回は⇒初めて姿を現した金正恩氏の「後継者」?
そのウランバートルを再訪した。昨年オープンしたばかりのチンギスハーン新国際空港に降り立つと、外は10月だというのに氷点下。覚悟はしていたが、心身ともに引き締まる寒さであった。観光シーズンはすでに終わっており、ウランバートル中心部に入っても外国人客の姿を見ることはほとんどなかった。
モンゴルと聞いて思い浮かべるのは、草原に寝そべりながら見上げる満天の星空といった光景ではないだろうか。しかしそうしたのどかなイメージとは異なり、人口330万人の約半数が集中する大都市ウランバートルは渋滞がひどい。山に囲まれた盆地で、今も多くの家庭で石炭ストーブが使用されているため、大気汚染も深刻だ。
かつて世界に名をはせた帝国の面影は薄れ、ロシア、中国の二大国に挟まれながら必死に生存を図ってきた国である。その意味では北朝鮮と似ているが、旧ソ連・ロシアとの関係はより密接だ。1920年代にソ連の支援を受けて中国(中華民国)から独立、史上2番目の社会主義国となった。冷戦時代もモンゴル人民共和国はソ連一辺倒の外交政策を維持。90年代にペレストロイカや東欧⾰命の影響を受けて社会主義体制を放棄したものの、ロシアと同じキリル文字を主に使用し、ソ連の様式で建てられた外務省庁舎など街並みもロシア風だ。
北朝鮮との関係は「片思い」
1948年に建国した北朝鮮が、ソ連に次いで外交関係を結んだのはモンゴルであった。90年にモンゴルが韓国と国交を樹立した後も、良好な関係は続いている。ただ、それは表面的なものであり、実質的には「没関係」と言っても過言ではない。
モンゴル在住の北朝鮮人は大使館員を含めて数十名規模であり、三つあった北朝鮮レストランは2019年までにすべて撤退した。北朝鮮に3000人ほどいたモンゴル人労働者も制裁の影響を受けて全員が撤収している。それでもウランバートルで朝鮮語(韓国語)がよく通じるのは、韓国での出稼ぎ経験のあるモンゴル人が異常に多いためだ。コンビニもカフェも韓国系ばかりが目立つ。北朝鮮大使館の隣にあるコンビニも韓国資本である。
モンゴル政府は東アジアにおける自らの存在感を示すために北朝鮮と日本などとの橋渡し役を果たそうと、さまざまな形態の国際会議を開いたりしてきた。ウランバートルが⽇朝接触の舞台となったこともある。
これに対し、北朝鮮側がモンゴルを重視している様子は見受けられない。社会主義体制を維持しているキューバやベトナムなどの友好国に比べ、その対応は明らかに冷淡だ。
たとえば2013年10月にモンゴルのエルベグドルジ大統領(民主党)が訪朝した際、⾦正恩国防委員会第1委員長(当時)は一度も会うことがなかった。この時は同大統領が金日成総合大学での講演で「いかなる暴政も永遠に持続できない」などと北朝鮮の体制批判とも受け取れる発言をしたことが、北朝鮮政府の不信を買ったためとも考えられた。
しかし、2004年12月にバガバンディ大統領(人民革命党)が訪朝した時も、最高指導者であった金正日国防委員長との接見は実現していない。結局のところ、朝蒙関係におけるモンゴル側の「片思い」は、そのころから変わっていないのだ。
【筆者紹介】
礒﨑 敦仁(いそざき・あつひと)
慶應義塾大学教授(北朝鮮政治)
1975年生まれ。慶應義塾大学商学部中退。韓国・ソウル大学大学院博士課程に留学。在中国日本国大使館専門調査員(北朝鮮担当)、外務省第三国際情報官室専門分析員、警察大学校専門講師、米国・ジョージワシントン大学客員研究員、ウッドロウ・ウィルソンセンター客員研究員を歴任。著書に「北朝鮮と観光」、共著に「新版北朝鮮入門」など。
(2022年11月25日掲載)
過去記事
■北朝鮮とキューバの微妙な距離感
■ベトナム・ハノイを歩いて見つけた「北朝鮮」
■金正恩氏「外交デビュー」の意外な真相
■連載TOP