「有熱者」という新語の意味
北朝鮮が、ついに新型コロナウイルス感染者の存在を認めた。5月12日に開催された朝鮮労働党中央委員会第8期第8回政治局会議において、同8日に平壌市内でオミクロン変異株が検出されたとして、金正恩総書記が「非常防疫事業」の徹底堅持を訴えたのだ。4月下旬から原因不明の熱病が「全国的範囲で爆発的に感染拡大」し、5月16日現在で「有熱者(発熱者)」が148万人にも達したという。
注目すべきは「有熱者」という聞きなれない用語である。実はこれ、5月12日の会議で初めて登場した新語。北朝鮮の国語辞典にも載っていない。ウイルス感染を確認するための検査キットが不足しているため、こういう表現にしているのだろうが、これまで何度か使用してきた一般的な「発熱者」とはあえて区別しており、実質的には「感染したと推定される者」を指すとみられる。
金正恩政権は2年以上の長きにわたり「コロナ感染ゼロ」を豪語してきたが、中国と国境を接する同国で感染ゼロというのは信じがたいという見方が一般的であった。もちろん、しかるべき検査をしていなければデータ上は「ゼロ」になるのは当然であるし、何よりも絶大な権力を持つ最高指導者が「ゼロコロナ」を掲げたからには、誰も感染者を報告することはできなかっただろう。
「有熱者」という新語を用いた背景には、そうしたこれまでの公式見解との整合性を意識した面もあると考えられる。発熱する者はこれまでも存在したが、コロナ感染が確認された「感染者」はゼロであった―という思考だとみられ、いかにも北朝鮮らしい論理の立て方である。
今回、金総書記は、厳格なロックダウン(全国的な封鎖)を指示するとともに、「計画された経済事業で絶対に遅れることがあってはならない」として生産活動の継続も強調した。引き続きゼロコロナを目指しつつも、「ウィズコロナ」への移行も視野に入れ始めたと考えられる。一方、感染が初めて明らかになった5月12日にも弾道ミサイル発射実験が行われ、コロナ禍でも兵器開発を継続する意思が示された。
ただし、北朝鮮メディアは発射の事実を一切報じなかった。これに先立つ5月4、7日の発射でも報道がなかったことから、当初は兵器開発を秘匿する方向に転じた可能性も考えられた。しかし、国内でコロナ問題が深刻化していることが判明した今になって思えば、経済的苦境と生活の不便を強いられている人々の不満を喚起しないよう、多額の資金を要するミサイル発射について一時的に口を閉じたのかもしれず、引き続き注目しておきたい。
核開発への影響は?
数値の真偽はともかく、北朝鮮が感染の事実を率直に明らかにしたことで、ワクチンをめぐる駆け引きは本格化するものと考えられる。同国はアジアの最貧国であり、医療体制は脆弱(ぜいじゃく)、人々の栄養状態も慢性的な問題だ。国連食糧農業機関(FAO)と国連児童基金(ユニセフ)は、2018年から2020年まで北朝鮮の栄養不足人口の比率は42.2%で、アフガニスタン(25.5%)と比べても格段に深刻であることを明らかにしており、ワクチンや医薬品の確保は急務である。
「中国の党と人民が経た先進的で豊富な防疫成果と経験から積極的に学ぶのがよい」―金総書記は5月14日に開いた党政治局の会議でそう語ったという。わざわざ「中国」を名指ししていることから、コロナ対応でも中朝関係を重視する姿勢が垣間見られる。ただ、北朝鮮のミサイル発射には目をつぶってきた習近平政権も、核開発には明確に反対の立場だ。北朝鮮が4年以上かけて修復してきた中国との関係を再び毀損(きそん)してまで核実験に踏み切るのかどうか。ワクチンをめぐる外交の行方とともに、今後の焦点となる。
【筆者紹介】
礒﨑 敦仁(いそざき・あつひと)
慶應義塾大学教授(北朝鮮政治)
1975年生まれ。慶應義塾大学商学部中退。韓国・ソウル大学大学院博士課程に留学。在中国日本国大使館専門調査員(北朝鮮担当)、外務省第三国際情報官室専門分析員、警察大学校専門講師、米国・ジョージワシントン大学客員研究員、ウッドロウ・ウィルソンセンター客員研究員を歴任。著書に「北朝鮮と観光」、共著に「新版北朝鮮入門」など。
(2022年5月19日掲載)
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