ちょうど20年前、私は北京の日本大使館に勤務していた。外交旅券を与えられながらも公務員ではない「専門調査員」という任期付き職員であった。極貧の大学院生にとっては、十分すぎる給料を頂きながら外交の現場を垣間見ることのできる願ってもない制度であり、その時に構築した人脈には今も助けられている。
「専門調査員」とは言っても20代の私にさしたる専門性があるわけはなく、単純な事務仕事も多かった。北朝鮮核問題を話し合う六カ国協議で外務省から多くの出張者が来ているときなどは夜中の3時過ぎまでこき使われたが、やりがいのある、かけがえのない経験であった。
在勤3年間のハイライトは2002年であった。史上初の日朝首脳会談が実現したことは言うまでもないが、脱北者が日本の在外公館に駆け込むという瀋陽事件のほか、北朝鮮でも「経済管理改善措置」という一定程度の改革措置、さらにはオランダ国籍の人物を長官に据えた「新義州特別行政区」という経済特区の設置など、情勢はめまぐるしく変化していた。
拉致問題が国民的課題となるなか、水面下で日朝接触が重ねられていることが断片的に報じられ、日朝赤十字会談や外務省の局長級会談も開催されていた。上司からは9月に休みを取らないでほしいと言われていたので、ついに日朝外相会談が実現か!と思いこんでいたが、それが外相会談ではなく首脳会談だということを知ったのは日本に住む友人からの国際電話であった。韓国の夕刊紙『文化日報』が「小泉訪朝」の特ダネを打ったが本当かと。何も知らないどころか、想像さえしなかった。灯台下暗しとはこのことで、絶句した。
在外公館の末端職員だった私が気付かないのは当然とはいえ、小泉純一郎首相の指令下で外務省内でも極秘に進められていた日朝交渉。慎重に慎重を期していたからこそ拉致被害者5人を奪還できたと言える。首脳会談の前まで北朝鮮は「拉致問題は日本政府のでっち上げ」と主張してきたが、金正日国防委員長が小泉首相に対して拉致の事実を認めて謝罪したのは驚くべき政策転換であった。北朝鮮から拉致被害者を奪還するという難題で真の成果を出すために、徹底した秘密交渉が進められていたのである。
しかし間もなくして日朝交渉は暗礁に乗り上げ、わが国の北朝鮮に対する不信感はますます募ることとなった。日本政府は北朝鮮とわずかな接触があるごとに成果としてアピールすることもあったが、難しい相手との折衝は記録を残しながらも「水面下」で行われるべきだろう。拉致被害者を奪還するという目的を達成するためには身内を欺くくらいの慎重さと覚悟をもって進めて頂きたいものである。歴代政権が「最優先課題」に掲げながらも、あれ以来誰一人として帰国を果たせていないという事実は重い。
【筆者紹介】
礒﨑 敦仁(いそざき・あつひと)
慶應義塾大学教授(北朝鮮政治)
1975年生まれ。慶應義塾大学商学部中退。韓国・ソウル大学大学院博士課程に留学。在中国日本国大使館専門調査員(北朝鮮担当)、外務省第三国際情報官室専門分析員、警察大学校専門講師、米国・ジョージワシントン大学客員研究員、ウッドロウ・ウィルソンセンター客員研究員を歴任。著書に「北朝鮮と観光」、共著に「新版北朝鮮入門」など。
(2022年5月16日掲載)
■金正恩氏から非難すらされない日本
■米朝「二股」で袋小路に~韓国・文在寅政権の功罪~
■金正恩氏が「無条件対話」に応じないワケ
■連載TOP
関連記事
【特別寄稿】私の問いに総理は即断した 「小泉訪朝」20年に想う 田中均元外務審議官
〔写真特集〕ドキュメント小泉首相訪朝(2002年9月)
〔写真特集〕日本人拉致事件