蒲郡の無名投手から大リーガーへ
プロ野球ソフトバンクのエースとして活躍した千賀滉大投手(29)の米大リーグ、メッツ入団が決まった。海外フリーエージェント(FA)権を行使し、夢の舞台に立つ。年明けの1月30日に30歳となる円熟期の右腕は、2022年まで7年連続2桁勝利を挙げ、19年には無安打無得点試合(ノーヒットノーラン)も達成。最速164キロを誇り、落差の大きいフォークボールは米メディアからも「ゴースト(お化け)フォーク」と注目されている。
日本球界を代表する剛腕も、高校3年生だった12年前はほとんど無名の存在。通っていたのは甲子園出場経験のない愛知県立蒲郡高だ。夏の全国高校野球選手権愛知大会では3年時の3回戦進出が最高で、本人は大学進学を考えていた。普通の高校球児に見えた千賀に、スカウトでも野球関係者でもない、目の肥えた地元の事情通が着目。旧知だったソフトバンクのスカウト部長に熱心にアピールし、隠れていた逸材候補が育成契約でプロ入りした。豊かな素質が開花し、驚異的な成長を遂げて今日に至る。育成入団選手として初めてとなる大リーガー誕生。その原点を探った。(時事通信福岡支社編集部 近藤健吾)
三河湾を望む海辺の街、愛知県蒲郡市は、名古屋から電車で40分ほどのところにある。人口約8万人。温暖な気候に恵まれて育つ名産の「蒲郡みかん」のほか、アサリをはじめとする海の幸も豊富に採れる。この地で、千賀少年は野球をしていた。
「プロになるピッチャーではない」
父の影響で野球を始め、小学2年生から「三谷東若葉」に、4年生からは「北部サニーボーイズ」に所属した。地元の公立中学校では主に三塁手としてプレー。投手に転向したのは、地元の蒲郡高に入学後だった。甲子園に一度も出たことのない県立高、いわゆる「普通」の高校だ。甲子園どころか、夏の地方大会では千賀が1年生の時は2回戦、翌年は1回戦で敗退。千賀が注目を浴びることはなかった。3年生だった2010年の全国高校野球選手権愛知大会。2回戦で千賀と対戦した愛知商高の監督だった森淳二さん(69)=現愛知県高校野球連盟顧問=は、当時の率直な印象をこう語る。
「プロに行くピッチャーではない。ずっと高校野球の指導をしてきて、良いピッチャーならいくらでも見てきたけど、千賀君は…」
10年7月19日、名古屋市の熱田球場で行われた愛知商高―蒲郡高。愛知商高が千賀を攻め、五回までに5点を奪った。だからこそ、森さんは「千賀君は…」と思った。直球の多くが130キロ台だったと記憶。これは良い、という球種はスライダーくらいだったという。「驚くようなスピードではなく、うちのバッターも打てた。スライダーは切れる印象はあった。スライダーを捨ててストレート狙いでいこう、という指示をした記憶はある」
3回戦敗退で終えた高校最後の夏
その千賀が、グラウンド整備が終わった六回以降に調子を上げてきた。「パタっと打てなくなった」と森さん。愛知商高は5―2とリードしていた六回に1点を失うと、七回には失策が絡んで4失点。結局、千賀には完投されて敗れた。圧倒的な投球をされたわけではない。森さんは、こうも感じていた。「確かに、潜在能力を持っているという気はした。鍛えればモノになるピッチャーだなと。ぎくしゃくした投げ方なんだけど、腕の振りは結構すごかった」
蒲郡高は続く3回戦で岡崎商高に敗れ、千賀にとっての高校最後の夏は、あっけなく終わった。この時は、千賀がプロ入りすることなど誰も想像しなかっただろう。しかし後日、ある人物がアクションを起こした。これが、千賀の運命を大きく変えることになる。
ひそかに知られた「蒲郡の千賀」
愛知商高が2回戦で敗れた日の夜、森さんの携帯電話が鳴った。親交のあるスカウトからだった。実はこの愛知大会の時点で、一部スカウトの間では「蒲郡の千賀」が知られていた。
「千賀君、どう?」
この年限りで野球部の監督を退任することが決まっていた森さん。最後に対戦した相手投手が、千賀だった。「負けた日の夜だから、余計に覚えている」と回顧し、電話口のスカウトにはこう返答したという。「どう?って…。プロに行くピッチャーじゃないですよ、ってはっきりと言いました。(2回戦で)結構打ち込んだから、余計に。どう?って言われても、え~って」
地方大会2~3回戦の試合に、プロのスカウトが注目をしている。しかも、全国的に評判の高い選手や強豪校とは全く違う、ごく普通の公立校。なぜなのか。スカウト陣が自ら行動していたのではない。
地元の「情報屋」が動いた
水面下で動いていたのは、名古屋市内で野球用品店「西正ベースボールショップ」を経営していた西川正二(まさじ)さん(故人)。県内の学校からユニホームなど野球用具の発注を受け、車を走らせては学校に納品していた。店を持ちながらも実際は外売り主体の、いわば外商のような形態。その傍ら、各地の球場に足を運び、高校野球をはじめとする試合を見ることを習慣としていたアマチュア球界の事情通だ。プロのスカウトとも太いパイプを持ち、目立った選手がいればその特徴などをスカウトに伝える「情報屋」としての役割を担っていた。
「ニシさん」の愛称で親しまれ、その人脈は愛知県内にとどまらない。プロ球団にも多くの知り合いがいたため、ソフトバンクや西武など各球団のキャンプや公式戦に招待され、全国各地に足を運んだ。2月や3月は店が繁忙期だというのに、宮崎や沖縄での春季キャンプに出向くこともしばしば。商売上手で、いざとなれば電話一本で、自分が店にいなくても取引ができた。「ニシさん、電話一本で商売していいねぇ」。酒席を共にすることが多かったプロのスカウトたちからは、そう言われていた。
西川さんの目に留まったリストの中に「蒲郡の千賀」がいた。そして、スカウトに情報が回った―ということだった。当の本人千賀はそんな事情など知らず、大学進学を視野に入れていた。森さんも「プロは手を引くのかなと思っていた」と振り返る。間接的ながらその夏、西川さんと千賀の「出会い」があった。
ほれ込んだ潜在能力
西川さんは千賀の存在をいち早く察知し、つながりのある複数の球団のスカウトに、その魅力を伝えていた。腕の振りや、肘の使い方に着目。圧倒的なスピードはなくても、体の柔らかさ、しなやかさがある。それらの潜在能力にほれ込み、「将来は億を稼ぐ」と確信を持っていた。ただし、前述の森さんら、周囲はプロに入るレベルではないと口をそろえていた。
今でこそ、ソフトバンクをはじめ多くの球団がポテンシャルを秘めた高校生らを育成枠で獲得し、そこから支配下登録された選手が1軍の戦力になっている。しかし、当時はそれほど育成のシステムが浸透していなかった。調査すらもしていない高校生を指名するのは、リスクが伴う。ドラフト会議まで残り2カ月ほどで、あまりに情報が少なかった。千賀を視察に来た球団はあったそうだが、いずれのスカウトも本格的な調査まではせず、最終的に出した答えは同じだった。「育成でも、獲得するのは無理だ」
眼力を信じた小川スカウト部長
そうした中で、西川さんの眼力を信じていたのが、他球団に先駆けて育成に力を入れ始めていたソフトバンクだ。当時のスカウト部長で、現在はゼネラルマネジャー(GM)補佐などを務める小川一夫さん(68)は、西川さんとの長年の付き合いがあった。
夏の愛知大会後。ある日、店にいた西川さんが興奮気味に電話をしていた。その様子を、長男の史時(ふみとき)さんは、はっきりと覚えている。「おやじが椅子に座って、誰かに電話をしていたんですよ。『億稼ぐピッチャーがおったぞ!』って」
この「誰か」が、小川さんだった。電話口で、西川さんはこうも言ったという。「蒲郡に、本当に良い投手がいる。俺は良いと思うんやけどなあ」
「神様からの授かりもの」
小川さんが電話を受けたのは、愛知大会で蒲郡高が敗退してから1カ月がたった頃だ。その年、10年秋のドラフト会議は10月28日。時間が少なかったどころか、指名する候補選手のリストは既に固まりつつあった。それでも、小川さんは部下のスカウト3人を蒲郡まで派遣。西川さんを信頼していたからだ。「アマチュア球界には、まれにプロのスカウトレベルで選手を評価をできる人がいる。西川さんにアマチュアの選手の評価する能力があるのは知っていた。だから、電話は無視はできないなと」
投球フォームの動画を撮影し、スピードガンで球速も計測。可能な限りの情報を入手した。スカウトが持ち帰ってきた映像などを見て、小川さんは確信した。「見た瞬間に、素晴らしい才能を持っていると思った。もしも(愛知大会を)見に行っていたら、(その時点で)獲得を決めていたと思う。こんなにおいしい話はない。神様からの授かりものと言えた」
千賀のような逸材が、なぜ調査すら受けていなかったのか。小川さんは「見る人が見れば、千賀はすごいと分かる。そういう人の目に触れていなかっただけ」と言う。翌11年から、12球団最初の3軍制導入が決まっていたこともあり、最終的にソフトバンクが育成4位での獲得に成功。思わぬ形で、千賀のプロ入りが決まった。10年12月11日、球団は育成ドラフトで指名した6人の入団を発表。千賀の背番号は「128」となった。育成5位は熊本・城北高の牧原大成内野手で「129」、同6位は大分・楊志館高の甲斐拓也捕手で「130」。千賀と甲斐は後年、球界屈指のバッテリーになる。
西戸崎でドームに憧れた若タカ
「ソフトバンクの千賀」としてのキャリアが始まった。想像すらもしていなかったプロの世界。雑草魂のような気概が、千賀を突き動かした。球団は現在、福岡県筑後市に設備が充実しているファーム施設「タマホームスタジアム筑後」を構えているが、当時の2軍施設は本拠地ヤフードーム(現名称=ペイペイドーム)から海を挟んだ福岡市東区の西戸崎(さいとざき)にあった。そこで汗を流す「若タカ」にとって、博多湾の向こうに遠く小さく見えるドームは、憧れの場所。千賀も同じだった。
「西戸崎で海を見ながら、あそこ(1軍本拠地)を目指して、あわよくば日の丸を背負って投げたいと思っていた。生意気を言っているのは分かっているが、(育成出身でも)気持ち次第ではそうなれる。そう(いう気持ちで)やってきた」
入団後、めきめきと力をつけた。ストレートの球速は1年目の11年8月に150キロを計測。2年目は春のキャンプから1軍に同行し、4月に支配下契約を勝ち取った。13年に頭角を現し、救援で51試合に登板。オールスターゲーム第2戦で好投して敢闘賞を受賞した。16年に先発に転向。ここから、驚異のスピードで勝ち星を重ね、今季まで7年連続で2桁勝利。その間、最多勝、最多奪三振、最優秀防御率と個人タイトルを手にし、19年のノーヒットノーランなど記録の数々は「育成出身で初めて」が付く。いつしか日の丸も背負うようになった。西戸崎での誓いを実現させた。
最高峰の舞台で腕を振る
そして、5年前から口にするようになったのが大リーグへの思い。17年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で経験したドジャースタジアムのマウンドが、「心に響いた」と明かす。それ以来、ポスティングシステムを利用しての移籍を繰り返し球団側に訴えてきたが、容認されなかったため、自力で海外FA権を取得するしかなかった。22年9月に取得すると、シーズン終了と当時に行使を表明。すぐさま大リーグ公式サイトが「プロ野球で最高の投手の一人」などと紹介した。交渉は順調に進み、メッツとの合意に至った。
押しも押されもせぬエースに成長してなお、自己評価はいつも厳しい。頭脳派で、多くを語らない性格。好投した試合でも、課題を挙げることの方が多かった。「野球選手である以上、前を向いて進む中で上がある」。人一倍の向上心の先には、最高峰の舞台で腕を振るという大きな目標があった。
「ニシさんの目に狂いはなかった」
育成出身選手で初の大リーガー。まさに、サクセスストーリーだ。昔の千賀を知る人たちは今、どう思うか。あの夏、千賀に完投されてチームが敗れた森さんは、懐かしそうに当時を振り返ってくれた。
後に愛知県高野連理事長などを歴任した森さんにとって、「蒲郡の千賀」は忘れられない相手でありながら、県立校からプロに入って活躍する地元の星だ。「私を監督引退に追い込んだピッチャー。元理事長の最後の試合が千賀君だったって、これはドラマチック。話題になるね」と笑いながら話すが、「県立から出たということで、どこの学校の子にも希望を与える存在だと思う」とも。敗れた試合以来、千賀とは一度も会えていないという。それでも、プロでの成長は常に気に掛けてきた。
「活躍しているのはうれしいよね。対戦した子が立派になって。こんなに良いピッチャーに負けたことが、今では誇りに思う。当時は悔しい、の一点張りだったけど、今思えば、やっぱり良いピッチャーだったんだなと。ニシさんの目に、狂いはなかったね」
千賀獲得を決断した小川さんは、このストーリーは偶然ではないと今でも思っている。「普段からしっかりスカウト活動をしてきたからこそ、そういう神様からの授かりものが来るんですよ。そもそも西川さんとのつながりがなかったら、あの電話はなかったわけですから」
「恩人」への思いも胸に
無名の高校からプロの世界に入り、入団時に270万円だった推定年俸は、育成入団から7年目で1億円の大台を突破。今回のメッツとの契約は、5年総額7500万ドル(約102億円)だ。西川さんが予言していた「億を稼ぐピッチャー」の域をはるかに超えた。プロでの活躍を誰よりも見たかったであろうニシさん。千賀がプロ入り1年目の11年秋、63歳の若さで病に倒れた。千賀とは一度も対面を果たすことができなかった。
人情味にあふれ、野球が大好きだったニシさんは今、天国で何を思うのか。史時さんは、こう空想する。「『俺の言った通りやろ。そんなもん、分かっとった話や!』って、絶対に言っていますね。でもメジャーまでは、想像できなかったと思いますよ」
無名の高校生をプロに導いた、野球用品店の店主。その眼力を信じて獲得に動いたスカウト部長。剛腕の原点には、運命的なストーリーがある。会ったことのない「恩人」への思いも胸に、千賀は海を渡る。
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千賀 滉大(せんが・こうだい) 1993年1月30日生まれの29歳。愛知県出身。地元の蒲郡高から育成ドラフト4位で2011年にソフトバンク入団。12年に支配下選手登録され、同年に1軍初登板。先発に転向した16年から今季まで7年連続で2桁勝利をマークした。19年にノーヒットノーランを達成。同年は最多奪三振、20年には最多勝、最優秀防御率、最多奪三振の各タイトルを獲得した。日本での通算成績は224試合に登板して87勝44敗、防御率2.59。日本代表として17年WBCに出場し、東京五輪では金メダル獲得メンバーに。186センチ、92キロ。右投げ左打ち。
小川 一夫(おがわ・かずお) 1954年4月16日生まれの68歳。福岡県出身。地元の戸畑商高時代に甲子園に出場し、捕手としてドラフト5位で1973年に南海(現ソフトバンク)に入団。当時は野村克也監督が率いていた。1軍出場の記録は同年の「偵察オーダー」での1試合だけ。一度も打席に立っていないため打撃成績はなく、78年に現役引退。2軍マネジャーやコーチとして球団に残り、球団名がソフトバンクとなった後は、主にスカウト業務に従事。和田毅投手、新垣渚投手、本多雄一内野手ら後に主力となる選手の獲得に貢献した。スカウト部長を長年務め、その後は2軍監督に就任して若手の育成に尽力。現在はゼネラルマネジャー(GM)補佐兼企画調査部アドバイザー。
(2022年12月27日掲載)