江戸歌舞伎の伝統的な名跡である「市川團十郎」が9年ぶりに復活した。市川海老蔵改め十三代目市川團十郎白猿(44)。成田屋という名門中の名門に生まれた「運命」と向き合い、祖父の十一代目、父の十二代目とも違う独自の感性で歌舞伎界の大看板を背負う。令和の團十郎が目指すものとは―。
父から学んだ「勧進帳」と「助六」
11月7日、「満員御礼」の垂れ幕が掛かる東京・歌舞伎座で「十三代目市川團十郎白猿襲名披露」が始まった。当初は東京五輪・パラリンピックに合わせて2020年5月から予定していた興行だが、コロナ禍による2年半の延期を経てこの日を迎えた。
「初代より十二代まで、團十郎を大切にしてまいりました先祖がございます。その先祖の足元にも及びませぬが、一生懸命努力をし、精進をしたいと思っている次第でございます」。新團十郎は初日の口上で「市川宗家としての覚悟」を述べ、無病息災の願いを込めて、邪気を払うとされる市川家伝来の「にらみ」を披露した。
11月に披露する「勧進帳」と「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」は、「歌舞伎十八番」の中でも宗家として「特別大切にしている演目」だ。初めて演じた時、父は作品の背景から丁寧に教えてくれたという。
「勧進帳」は、兄源頼朝に追われた義経が、従者の弁慶の機転で安宅の関を越える物語。「10代後半から(義経の家来である)四天王の役を勤めながら、(弁慶を演じる)父をはじめ先輩たちの芸を見て、息を感じながら学びました。弁慶を演じる上で一番大事なことは、技芸ではなく義経を命懸けで守ること」と言う。
一方、「助六」は大歓楽街だった吉原を舞台に、江戸随一のだて男の助六と吉原一の美女、揚巻(あげまき)を軸に描かれる。助六が蛇の目傘を手に花道でさまざまなしぐさをする登場シーン、廓(くるわ)中の女たちからたばこを渡されて「煙管(きせる)の雨が降るようだ」と色男ぶりを見せる場面など見どころも多い。歌舞伎座建て替えのため行われた2010年の「さよなら公演」では、父が助六を演じて有終の美を飾った。
歌舞伎の歴史をつくった350年
約350年に及ぶ「團十郎」の歩みは、歌舞伎の歴史を作ってきた年月でもある。
赤いくまどりにド派手な衣装。人々が持つ歌舞伎のイメージは昨年、東京五輪開会式で海老蔵時代の十三代目が披露した「暫(しばらく)」のような演目だろう。この勇壮で力強い「荒事」を生み出したのが初代團十郎(1660~1704年)で、「鳴神(なるかみ)」「勧進帳」など、のちに「歌舞伎十八番」に含まれる演目の原型を演じた。
初代が成田山に子宝祈願して授かったとされる二代目(1688~1758年)は、柔らかみのある「和事」も得意とし、「助六」「外郎売(ういろううり)」「毛抜」などを初演。このうち「外郎売」と「毛抜」は今回、十三代目の長男、八代目市川新之助の初舞台披露の演目に選ばれた。
七代目(1791~1859年)は代々の團十郎が演じた演目を「歌舞伎十八番」として制定。九代目(1838~1903年)は、「勧進帳」を今日の形に洗練させたほか、「鏡獅子」「船弁慶」などを「新歌舞伎十八番」に選定。古典に心理描写も取り入れ、近代歌舞伎の礎を築いた。
戦後の歌舞伎復興を担ったのが十三代目が敬愛する祖父の十一代目(1909~65年)。九代目の高弟である七代目松本幸四郎の長男だが、跡継ぎのいなかった市川家の養子となり、海老蔵時代は「海老さま」と呼ばれ絶大な人気を誇った。十代目が死後に贈られた名跡だったため、62年の十一代目襲名興行は、九代目没後59年ぶりの「團十郎」復活として人々を熱狂させた。十二代目(1946~2013年)は85年の襲名時に歌舞伎座で3カ月間の披露公演を実施。米国でも興業を行い、その後の歌舞伎人気に火を付けた。
選べない苦しさと喜び
十三代目は先代の長男として生まれ、85年に七代目新之助として初舞台を踏む。祖父や父と違い、生まれながらの成田屋の御曹司。本人も小学生の頃から、いずれ團十郎を継ぐ覚悟があったという。
「あまり考えるとか奮起してとかではなく、諦めと希望。友だちはパイロットとか絵描きとか、いろいろ夢がある。私の場合は選べない苦しさと、そこに素晴らしい歌舞伎というものがあるという喜びの両方。歌舞伎の家に生まれた人にしか分からない苦しさと喜びです」
そんな葛藤を経て、04年の十一代目海老蔵襲名後は、歌舞伎の道をまい進した。パリ・オペラ座での「勧進帳」や、ロンドンでの「義経千本桜」など海外公演のほか、上演が途絶えていた「歌舞伎十八番」の演目の復活、日本の昔話や人気絵本を基にした新作、能・狂言など他の古典芸能とのコラボレーションなど精力的に取り組んだ。「これはもう、歌舞伎が仕組んだ運命」。海老蔵時代に語った言葉に説得力があった。
この18年間の成果の一つとして、歌舞伎十八番の演目である「鳴神」「毛抜」「不動」が織り込まれた「雷神不動北山櫻(なるかみふどうきたやまざくら)」を再構成して上演したことを挙げる。「5~6時間あったものを休憩を入れて3時間20分ぐらいにまとめ、非常に受け入れていただいた。せがれにもやってもらいたい」と次代への継承にも期待する。
たびたび苦境にも立たされた。海老蔵襲名興行の10日目から父が白血病で休演。舞台に復帰はしたが、13年の歌舞伎座新開場を目前に亡くなった。17年には妻も2人の子を残して他界。本人が暴行事件に巻き込まれたこともあった。
「普通の方々が経験したことのない経験、しなくてもよい経験、味わわなくてもいい苦しさがあった。人としての厚みというものを海老蔵時代に随分体験した。役者は最終的には人間の魅力があってこそ。大いに海老蔵を生きたなと思います」
異端でもあり続けること
十三代目團十郎はどんな道を歩むのか。
「團十郎とは格式がある重い名前だと認識されていると思いますが、荒事を構築した初代は伝統から始まったわけではない。七代目は歌舞伎十八番を作り、九代目は新歌舞伎十八番を作った。革新的なことを忘れない姿勢が必ず團十郎家には必要です。王道でありながら異端であり続ける。座布団に座って『これはこうでございます』というのは違う」
そんな志も、周囲の信頼を得られてこそ。襲名披露の口上で大先輩の松本白鸚からは「先輩方の教えをよく守り、同輩とは舞台の上で芸の火花を散らし、後輩、若手、一門の者には大きな愛情をもって接し、これからの歌舞伎を担ってもらいたい」とエールを送られた。
「市川海老蔵」(岩波現代文庫)の著者で演劇評論家の犬丸治さんは、十三代目が新之助時代に22歳で初めて演じた助六が忘れられない。
「渋谷のセンター街を歩いている若者のようでありながら、ちゃんと歌舞伎の型にはまっていて、ああ、助六というのは、こういう人間だったんだなという発見があった。切れ味鋭い、抜き身の刀みたいな味わい。型を型として向き合うだけじゃなく、なんでこうなっているのだろうということをつかむ感性があった。 同時に輝くような若さが、世阿弥が言う『時分の花(一時的な魅力)』として若い頃の鋭い感性と合致したんだと思います」
ただ、海老蔵時代には物足りなさも感じた。「海老蔵を名乗ってからは、さまざまな試練のため守りの姿勢を取らざるを得なくなった。先輩や同年配の役者ともっと共演してもよかったが、その機会を失い、持っている力を外に出せないまま休眠状態だったような気がします」
上の世代との橋渡し役となる中村勘三郎や坂東三津五郎が相次いで亡くなったことも、影響しているとみる。
その上で、十三代目となった今は、「王道を守りながら型破りをしていかないと歌舞伎は生き残れない。手綱さばきが難しいけれど、王道なくして革新なし、革新なくして王道なし。團十郎は歌舞伎の頂点の名前。『まことの花(本物の魅力)』を咲かせていくためには、どちらかに傾くことなく、全方位的にいろんな役者たちと共演していってほしい」と期待する。
「文化」を担う覚悟
歌舞伎は俳優だけでなく、床山や衣装、大道具、狂言方など多くの人々によって成り立つ。今回の襲名披露には、コロナ禍で打撃を受けた歌舞伎界を盛り返す起爆剤としての期待がかかる。役者に屋号などの声を掛ける「大向こう」が条件付きで再開するなど、徐々に日常は戻りつつあるが、十三代目が口上で述べたように「まだまだ油断できぬ状況」でもある。
古典を顧みるどころか、次々生まれる新たなカルチャーすら、たちまち消費され忘れられる現代。経済的にも厳しい状況の中、十三代目はどんな役割を果たせるのか―。
「父の襲名の時から中曽根(康弘)さん、海部(俊樹)さん、当時の政治家の方とお付き合いがあり、子どもの頃から聞かされたのは『経済と文化は両輪である』ということ。日本人のアイデンティティーとしての文化の一つとして、私は歌舞伎という部分を任されている。それが團十郎としての一つの役目です」。十二代目が生前のインタビューで語った同じ志を口にした。
(時事通信編集委員 中村正子)
「市川海老蔵改め十三代目市川團十郎白猿襲名披露」は歌舞伎座で12月も行われ、全国巡業や各地の劇場での披露公演が2024年まで続く。問い合わせは電話0570(000)489。
(2022年11月21日掲載)