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佐々木貴文「東シナ海 漁民たちの国境紛争」(角川新書)【今月の一冊】

2021年12月16日12時00分

今、尖閣で起きているリアル

佐々木貴文「東シナ海 漁民たちの国境紛争」(角川新書)【時事通信社】

佐々木貴文「東シナ海 漁民たちの国境紛争」(角川新書)【時事通信社】

 2015年にインドネシアに出張した際、スカルノ・ハッタ国際空港で歩いていると、前から来たインドネシア人の若者たちがニコニコしながら私に近づき、「ニホンジン?マグロ!」と突然話し掛けて来てハイタッチされ驚いたことがあった。それが何だったのかの答えは本書の中にある。(東京都立大学教授 谷口功一)

 日中台がそれぞれの権益をかけて熾烈(しれつ)なせめぎ合いを続けている「東シナ海」という舞台をめぐる「歴史と現状」の分析が本書前半で展開される中心的なテーマなのだが、その前提をなす、より基層的で普遍的なテーマが全体を通じて鳴り響いていることを読者は、後半部で思い知ることとなるだろう。

 元自衛隊特殊部隊員・伊藤祐靖の小説『邦人奪還』をほうふつとさせる異様な臨場感とリアリティーにあふれた「まえがき」の描写からも分かる通り、著者の佐々木は荒れ狂う波をものともせず実際に漁船にも乗り組む行動派であり、尖閣をはじめとする漁業の現場を知悉(ちしつ)している。学者の手になる机上の空論ではないことが、冒頭から、いきなり了知されることになるだろう。

 本書全体で通奏低音のように鳴り響くテーマは、国家の三要素の一を占める領域(領海)とは何なのか、である。そして、それを領域たらしめるために必須の「経済活動(漁業)」とそれを担う人びとの現状を綿密に描き出している点に、他には無い本書の特徴があると言えるだろう。

 1993年には32万人ほどいた漁業就業者は2018年に15万人ほどになり、漁村の高齢化率も日本全体のそれを10ポイント上回る状況(40%)にまで達してしまっている。4088ある漁村の過疎化率は67%超。総延長3万5000キロメートル超のわが国の海岸線で衰退は進み、「国境域のスポンジ化」が進行しているのである。総数としては地方(県)の第二都市くらいの人口で日本の漁業の全てを支えているのが現状なのだ。

 もともと教育学畑出身の佐々木だからこその視点だが、現在、日本の漁業を担う後継者は危機的な先細り状態にある。実は全国に41ある水産高校本科を卒業して沖合漁業や遠洋漁業を支える中心的人材となる卒業生は、毎年100~150人しかおらず、そのうちの多くは労働条件のよい「商船」へと流れてしまうのである。

 日本人が居なくなった漁業の現場で最前線に立っているのこそが、実は冒頭で触れたインドネシア人たちなのである。インドネシアでは水産高校の卒業生は比較的高学歴であり、労働条件が(中台の漁船の過酷さに比して)相対的に良い日本の漁船に数多く乗船している。これは日本だけに限られた話ではなく、台湾漁船も多くのインドネシア人やフィリピン人の乗組員に(日本以上に)依存しており、外国人船員たちが各国の漁船の上で「国境の最前線」に立っているのが現状なのである。

 尖閣周辺を典型として軍事化する日本近海において、佐々木は「第三の海軍」ともなる漁業を今後も維持してゆくために「日本漁業国有化」論を提唱する。「海軍」や「国有化」という語だけを見て、駄法螺(だぼら)なのではと鼻白んだり、あるいは言葉の強さに眉をひそめたりする向きもあるだろうことは容易に想像できる。しかし、本書を虚心坦懐(たんかい)に読み、その主張を支える底堅い現実認識と分析、そして日本の漁業を取り巻く筆舌に尽くしがたい窮状を知るなら、それが学者の描く絵空事などではないことが、深く理解されるはずである。

 われわれの食卓に並ぶ魚たちが、いったい誰によってどこから、どのようにもたらされているのか、そしてそれが今後どうなるのかを知ることこそ、「経済安全保障」を考える上での大切な第一歩になるのではないかと思わされる一冊、それが本書である。

◇  ◇  ◇

佐々木 貴文(ささき・たかふみ)1979年生まれ、三重県出身。北海道大学大学院教育学研究科博士後期課程修了後、日本学術振興会特別研究員や鹿児島大学大学院水産学研究科准教授などを経て2019年から北海道大学大学院水産科学研究院准教授。専門は水産経済学、職業教育学、産業社会学。内外情勢調査会支部懇談会講師。主な著書に「漁業と国境」(共著、みすず書房)、「近代日本の水産教育―『国境』に立つ漁業者の養成―」(北海道大学出版会)など。

(2021年12月16日掲載)

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