ノーベル賞作家の癒えぬ痛みと悲しみ
2022年のノーベル文学賞に選ばれたフランスの作家、アニー・エルノーの自伝的作品「事件」を原作とする映画「あのこと」が、日本で12月2日から劇場公開される。同作は2021年のベネチア国際映画祭で、最高賞の金獅子賞を受賞している。(松原慶・著述業)
「あのこと」とは、闇中絶を指す。人工妊娠中絶が法律で禁止されていた1960年代のフランスが舞台で、中絶という単語は、口に出すのもはばかられるタブーだった。自由を謳歌(おうか)していた大学生のアンヌは、望まぬ妊娠に狼狽(ろうばい)し、教員や作家の夢を諦めないために、何としても中絶しようと孤軍奮闘する。
多くの女性が人知れず体験しているはずなのに、非合法ゆえ、アンヌは闇中絶の情報になかなかたどり着けない。医師たちに相談しても、罪に問われることを警戒して、敬遠されてしまう。恋愛相手だった男子学生は、どこか他人事だ。妊娠の責任が女性ばかりに課せられる理不尽さ。自力でなんとか解決しようと、薬を飲んだり、長い編み針を挿入してみたり、いろいろ試してみるけれど、望むような結果は得られない。
タイムリミットが迫る中で、母親にも言えず、アンヌの孤独はどんどん深まっていく。教授にも目をかけられる優秀な学生だったのに、絶望的心境や体調変化の影響か、肝心の勉学にも身が入らなくなっていく。
彼女が必死になるのには、切実な理由があった。階級社会のフランスで、両親は小さなカフェ兼食料品店を営む労働者階級に属し、貧しく学も乏しかった。聡明で努力家のアンヌは、そこから抜け出して、知識階級に這い上がるために、学士という切符がどうしても必要だったのだ。
主演はアナマリア・ヴァルトロメイ。映画デビューは、監督のエヴァ・イオネスコの実話をもとに、写真家の母親にモデルにされ性的オブジェ扱いされた美少女と母親の確執が取り上げられた「ヴィオレッタ」(2011)で、12歳だった。第一作では痛々しい印象が強かったが、本作では、意志を貫かざるをえなかった若き女性を繊細に、時に大胆に演じ、セザール賞最優秀新人女優賞を受賞している。
監督・脚本は、中絶体験を持つ、オードレイ・ディヴァン。自身の経験した合法的中絶と、非合法の中絶の違いを知りたいと調べていて、エルノーの著作「事件」に出会い衝撃を受けた。シナリオ執筆のためエルノーから直接話しを聞く機会を持った。「まさに中絶を行う瞬間の話を始めた時、エルノーは目に涙を浮かべていた。80歳を超え今なお癒えていない彼女の痛みと激しい悲しみに動揺した」という。
主役に寄り添うようなカメラワークは、臨場感を醸し出す。目を背けたくなるような生々しい描写も、闇中絶のリアルを伝えるために、不可欠なものだった。エルノーは上映後、ディヴァン監督への手紙の中で、「あなたは真実の映画をつくった」と最上級の賞賛を贈っている。
エルノーはオートフィクション、自伝的なフィクションに一貫して取り組んできたことで知られる。書くことで、自分自身の身に起きた現実を対象化して、社会的・歴史的文脈にもひも付けて深く理解しようとしてきた。題材に選んできたのは、自らの父親や母親、夫婦関係、子育てなど。特筆すべきは、性的欲求―社会的に男性には寛容で、女性には“ふしだら”などと烙印(らくいん)が押され不寛容という二重規範があるが、エルノーは正面から向き合うことをためらわない。
映画化もされたベストセラー『シンプルな情熱』では、年下で既婚の外国人男性との性愛に耽溺(たんでき)してしまう知的女性の波乱の日々を、喜びも渇望の苦しみもごまかさずにつづっている。「事件」の中でも、エルノーは性衝動を隠さない。官能的快楽というテーマを重要視するディヴァン監督は、それを真摯(しんし)に受けとめ、「あのこと」で、若きアンヌの生命力があふれ出すようなセクシュアルな欲動も描き出す。
フランスでは、女性たちが声を上げ、1975年に中絶が合法化された。その後、日本人もうらやむ充実した出産・子育て支援や、未婚・既婚に関わらず出産・子育てしやすい環境が整備されてきた。「事件」のような女性を抑圧する時代は、過去のものになったのだろうか? 残念ながら、否だ。
今年6月、米最高裁判所は女性の中絶権を認めた1973年の「ロー対ウェイド判決」を破棄し、中絶を禁止する州が相次ぐ。米国内だけでなく、女性の自己決定権が奪われた時代に逆戻りしかねないという危機感が世界に広がっている。日仏両国で弁護士資格を持つ金塚彩乃氏の論考によると、フランスでは、米国の後退ぶりを踏まえ、中絶権を奪われないために、憲法に定める法案が提出されたという。
一方、日本では中絶は1948年に早くも合法化されたが、国際的には中絶後進国の位置付けに甘んじている。明治時代に制定された刑法堕胎罪がいまだにある。母体保護法によって中絶は可能だが、費用は高額で、配偶者同意を必要とし、中絶の可否は医師の裁量次第。配偶者の同意が得られず、複数の医療機関をたらい回しにされるなど、望まぬ出産に追い込まれる女性たちが後を絶たない。安全性の高い経口中絶薬が、厚労省へ使用申請され承認待ちだが、夫の同意が必要とされ、高額で、入院要件が付くことが危惧されている。唯一認められている手術も、旧式で、WHOの「安全な中絶」の水準に達していない等々。過去に、日本の低下し続ける出生率を上げるため、中絶禁止を提案した議員さえいた。中絶をめぐる闘いは、今も続く。
原作は嫉妬を主題とする作品を併載し、『嫉妬/事件』(ハヤカワepi文庫)と題して、11月に刊行されている。
(2022年11月26日掲載)