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プーチン大統領とスパイ・ゾルゲ ウクライナ苦戦で利用される英雄【解説委員室から】

2022年11月05日12時00分

 11月7日は、戦前の東京で情報活動を行った旧ソ連の大物スパイ、リヒャルト・ゾルゲが処刑された日。78年となる今年も、ロシア大使館幹部が例年通り、東京西部の多磨霊園にあるゾルゲの墓に献花する予定だ。

 近く退任するガルージン駐日大使をはじめとするロシア大使館幹部は今年、5月9日の対独戦勝記念日や6月22日のドイツ軍ソ連侵攻日に際してもゾルゲの墓に献花しており、墓参の頻度が増してきた。ウクライナ侵攻で愛国主義が高揚する一方で国際的孤立が深まる中、ロシアでは英雄ゾルゲを顕彰する機運が強まっているようだ。(拓殖大学特任教授、元時事通信モスクワ支局長 名越健郎)

【目次】
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ゾルゲに憧れたプーチン氏
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ロシアで評価高まる
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動員令下、愛国主義シンボルに
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再評価の中で大量機密解除

ゾルゲに憧れたプーチン氏

 旧ソ連国家保安委員会(KGB)のスパイだったプーチン大統領は2020年10月7日の68歳の誕生日、タス通信とのインタビューで「高校生の頃、ゾルゲのようなスパイになりたかった」と告白した。プーチン氏は2000年出版の回想録で、スパイ映画を見てKGB入省を志したとしていたが、志望動機にゾルゲの存在があったことを公表したのはこの時が初めてだった。

 柔道を通じて日本に関心を持ち、旧東独にスパイとして駐在したプーチン氏にとって、日本で活動したドイツ人スパイ、ゾルゲへの思い入れは強いとみられる。

 ただし、特ダネを連発したスーパー・スパイのゾルゲと違って、プーチン氏は「凡庸な二流スパイ」(独誌ツィツェロ)で、同僚は大佐以上で退役したのに、プーチン氏は中佐どまりだった。

 プーチン氏がKGBに勤務していなければ、後に大統領になることはなかった。「プーチンの戦争」といわれるウクライナ侵攻もなかったはずだ。プーチン氏がゾルゲに憧れてKGB入省を目指したとすれば、ゾルゲは死後もロシアと世界を揺るがせていることになる。

 政府系のロシア世論調査センターが2019年に実施した「世界で最も偉大なスパイ」の調査で、ゾルゲは15%でトップ、プーチン氏は4%で4位だった。

ロシアで評価高まる

 ゾルゲは1933年にドイツ紙記者を装って東京に着任し、8年間精力的に活動。在日ドイツ大使館に食い込み、盟友の元朝日新聞記者、尾崎秀実らの協力を得て、ドイツ軍のソ連侵攻や日本軍の南進など多くの機密情報をモスクワに打電した。しかし、日米開戦前夜の41年10月に逮捕され、尾崎と共に44年に処刑された。

 ゾルゲ事件は戦後の日本で大きな関心を呼び、数百冊の書籍が出版されたが、世代交代とともに関心は低下した。

 ロシアは逆で、近年ゾルゲの評価が急上昇し、関連書籍が次々に刊行されている。KGBの元幹部らが中核を占めるプーチン政権が高揚させた愛国主義や第2次世界大戦の戦勝神話が再評価を後押しした。

 2016年に開通したモスクワ地下鉄中央環状線の新駅は「ゾルゲ駅」と命名された。各都市に「ゾルゲ通り」が誕生し、現在、ゾルゲの名を冠した通りはロシア全土に50カ所あるという。近年、ウラジオストクなど各地にゾルゲの銅像が建立された。

 2019年には、国営テレビ「チャンネル1」で歴史ドラマ「ゾルゲ」(セルゲイ・ギンズブルク監督)が全12回で放映された。これには尾崎役や愛人の石井花子役で日本人俳優も動員された。ゾルゲの展覧会や講演会も各地で開かれている。

動員令下、愛国主義シンボルに

 ゾルゲの墓は戦後、銀座のホステスだった石井花子が建立したが、石井の死後、所有権を継承しためいは墓の権利をロシア大使館に譲渡するとの遺書を残し、2018年に亡くなった。墓は大使館の所有となり、東京都に墓地管理料を払っている。

 2019年に来日したショイグ国防相らも墓参しており、来日するロシア要人にとって、多磨霊園が巡礼の地となった。

 ガルージン大使は2022年6月、ベラルーシなど旧ソ連諸国の駐日大使らも参加した墓地での献花式で、「ゾルゲ氏の努力で、効果的で広範な情報ネットワークが作られ、モスクワは日独の政策に関する重要な情報を得られた。英雄として死んでいったゾルゲ氏らに敬意を表す」とあいさつした。

 1月には、ラブロフ外相が下院で、ゾルゲの遺骨をサハリンや北方領土に埋葬し直す構想を日本側と協議中だと述べたが、ガルージン大使が否定し、うやむやになった。

 近年ロシアでゾルゲが脚光を浴びているのは、国際的な孤立や緊張を強いられる中、ゾルゲが暗躍した大戦前の時代環境と似てきたこともありそうだ。

 歴史学者で出版社幹部のアレクサンドル・コルパキジ氏は、「ロシア軍事史学会はゾルゲの活動を国民に周知させるため活動している。祖国のために勇気と不屈の精神で犠牲を払った人物は、愛国心と英雄主義の模範になる」と述べた。

 ウクライナ戦争の部分的動員令に多くの若者が反発して出国し、厭戦(えんせん)気分も広がる中、プーチン政権はゾルゲを愛国主義のシンボルと重視しているようだ。コルパキジ氏は「伝説的なスパイの存在と活動を学校でも強制的に教えなければならない」としている。

再評価の中で大量機密解除

 ゾルゲ再評価の中で、ゾルゲが属した軍参謀本部情報総局(GRU)はこれまでに、ゾルゲが東京からモスクワに送った電報や書簡、本部からの指示など約650本の文書について機密指定を解除した。

 ゾルゲ研究家のアンドレイ・フェシュン・モスクワ国立大学准教授は解禁された文書を集めて出版。このうち1941~45年の文書を筆者らが翻訳し、『ゾルゲ・ファイル 赤軍情報本部機密文書』(みすず書房)として10月に刊行した。

 同書には、ドイツ軍のソ連侵攻を警告する約10本の電報や、「南進」の方針を決めた御前会議の通報、大戦前夜の微妙な日独、日ソ、日米関係などをめぐる電報が網羅され、ゾルゲのスパイ活動の全容が初めて示された。ソ連がこの時期に、ゾルゲ機関以外に少なくとも5人のスパイを東京で暗躍させていた新事実も判明した。

 ロシア側の情報公開で、ゾルゲ研究は新段階に入った。

【筆者略歴】東京外国語大学ロシア語科卒。時事通信社でモスクワ、ワシントン各特派員や外信部長などを歴任。『秘密資金の戦後政党史』(新潮選書)、『ジョークで読む世界ウラ事情』(日経プレミアシリーズ)、『独裁者プーチン』(文春新書)など著書多数。

(2022年11月5日掲載)

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