サッカーの第22回ワールドカップ(W杯)カタール大会が、11月20日に開幕した。その首都は、日本サッカー史に刻まれる「ドーハの悲劇」があった因縁の地。ラジオのニッポン放送で現地実況を務めた師岡正雄アナウンサー(62)は、その悪夢を目撃した生き証人だ。
当時の情景や苦い記憶、4年後に立ち会った「ジョホールバルの歓喜」、そして今やアジアのサッカー強国に育った日本代表への思いは―。実際に実況した音声とともに、当時の舞台裏を語ってもらった。(時事通信運動部 前川卓也)
コンセプトは「語りかける」
「入った、入ってしまった、日本!」「こんなことって本当にあるんでしょうか…」
1993年10月28日のアルアリ競技場。日本がW杯初出場を目前で逃したその瞬間に、師岡さんが発した言葉だ。飾ることなく、素直な思いが口を突いて出た。テレビだけでなく、ラジオにかぶりついて聞いたファンは多い。音声は一部テレビ局がニュースや特集番組などで流す映像にも使用され、有名なフレーズの一つとなった。
師岡さんは九州朝日放送を経て、Jリーグ元年の93年3月にニッポン放送へ入社。臨場感に加え、リスナーに語りかけるような熱い言葉も小気味良く混ぜる名調子で鳴らす。特徴的なのは、動きの激しいサッカーでは立ったまま実況すること。「テンポとリズム、それに声に抑揚が出る」ことが理由で、転職直後の5月に迎えたJリーグ開幕戦で話す大役も務めた。
その93年10月。W杯米国大会のアジア最終予選が行われるドーハへ飛び、現地練習初日の9日から取材を始めた。携帯電話もパソコンも普及していない時代。宿泊するホテルにかかってくる会社からの国際電話で国内の盛り上がりを伝えられ、ファクスで新聞記事が大量に届く。「プレッシャーは半端なかったよ」と苦笑いで振り返った。
日本は1分け1敗スタート。そこから北朝鮮、宿敵の韓国に連勝し、最終戦のイラク戦で勝てば無条件で夢の切符をつかめるところまで来た。会社からの国際電話も激しくなる。正念場の一戦をどう伝え、歴史的な瞬間をどう表現するか。ラジオの原点に戻り、事前の打ち合わせで「リスナーに話し掛ける意識で、現地の全てを共有する」と伝えた。実際の実況でも「学生の皆さん」「運転手の皆さん」など、深夜の生放送を聞いているであろう人たちに何度も呼び掛けていた。
「ラジオはパーソナルな世界。深夜放送ではがきを読むのは、リスナーが『私に話し掛けてくれている』というキャッチボールが生まれるから。受験勉強中の学生さん、仕事中の運転手さん、それぞれ全員の代表として、応援団長としてしゃべることがコンセプトだった」
劣勢にも高まる熱気
当日のアルアリ競技場は、白装束に身を包んだイラクを応援するファンで埋め尽くされていた。「独特の音楽が流れて、観客席は真っ白。彼らに負けない中継を日本に送ろう」。試合は開始早々に「カズ」こと三浦知良が先制ゴール。その後は押し込まれ始めたが、1―0で折り返した。すると、後半から師岡さんのトーンが一気に高まっていく。チームを鼓舞するファン視線の熱いフレーズと、臨場感ある実況が小気味良く織り混ざっていった。
(※≪ ≫は実況部分)≪アメリカ大陸へ向けての本当の意味での45分の戦いが、今始まった≫ ≪(控え選手の名前を全員呼んだ後に)さあ日本、サブ(控え選手)の気持ちにも応えろイレブン!≫
「残り45分の辛抱だぞと。W杯まで、アメリカ大陸まで、あと何分みたいな感じが強かった。(日本がW杯初出場を決めた)ジョホールバルもそうだけど、本当はそんなに声を張る必要がない。でもあの熱気に包まれていると、頭の中が自然と『声が枯れてもいい』となってしまう。とにかく、日本頑張れと。この瞬間は声が枯れてもいいと思ってしまう。実況アナウンサーとしては、本当は間違いなんだけどね」
劣勢に回る中、後半10分に追い付かれると口調も激しさを増した。
≪さあ日本、日本、まだ残り時間はある。1―1、まだ残り時間は35分あります! 顔を上げて前進するのみ。さあ、これで目を覚ませ、日本!≫
その後の同24分に中山雅史が勝ち越しゴール。一気にボルテージが高まった。
≪ゴール! 決めた、日本、日本、中山だー! 中山がガッツポーズだー! ラモスからのスルーパス! 24分、24分、やっぱり決めてくれたのはラッキーボーイの中山! アメリカが見えてくる、アメリカが見えてくる!≫
ここから日本は防戦一方となった。放送ブースも焦燥感に包まれる。師岡さんは何度も何度も残り時間を盛り込んだ。
「ようし、行ける、これは大きいと。でも劣勢だった。散々危ないシーンがあってひやひやしていた。とにかく守ってくれ、と。本当に祈るような、祈りに近い実況だった。米国に行くために私はしゃべっている、米国に行くためにみんな応援しているんだからと」
意表突かれて言葉に詰まる
そして後半ロスタイム。その時は訪れた。まだロスタイムが今ほど厳密ではなく、よほどのことがない限り、ワンプレー、ツープレーで試合終了となった時代だ。右CKを得たイラクは、直接ゴール前にボールを上げてくる―。そう考えるのが自然だった中、キッカーは右サイド近くにいた仲間に短いパスを出した。日本は慌ててケアしたが、全体のマークがずれる。守備網を再構築する時間はなく、右クロスを頭で合わせられて同点ゴールを許した。
実は、実況にも勝負の機微があった。ショートコーナーの瞬間、師岡さんの実況はこうだった。
≪右サイドから……、に……、サイドから、CKからセンタリング、ゴール、入ったー! 入った、入ってしまった、日本!≫
「言葉に詰まったんだよね、あそこは。意表を突かれたんだよ。あそこでショートコーナー、短いボールを出したら時間をロスする。そう思っていたら、『うっ! えっ!?』となった瞬間にセンタリングが上がって。まさか短いCKだとは思わなくってね。しかも時間も90分を回り、ここさえ守ればW杯だ、と思っていたから」
思わず崩れ落ちた。常に立って実況する師岡さんが、だ。後にも先にも、試合中にしゃがみ込んでしまった記憶は他にないという。それでも約2秒ですぐ立ち上がった。
「立ってしゃべっていたのに、その時はしゃがみ込んでしまった。初めてだったよ。『うわーっ』てしゃがみ込んでしまった。選手も頭がまっ白だった。ぼうぜんだった。私も一瞬、ぼうぜんとなって、それで言葉にならなくって。でも、ラジオは黙っちゃいけない。しゃべんなきゃいけない。タイムアップもしていない。奇跡が起こるかもしれないから」
頭を上げた直後に目の前に広がった光景は、ピッチに倒れ込んで動けない日本選手の姿だった。ボールがなかなかセンターサークルに戻らない。今の情景を、ありのままに伝えるしかない。腹をくくった。
≪ワールドカップ9度目の挑戦も、夢と消えるのか日本! さあ右サイドから福田が走れ! 残り時間、まだホイッスルは鳴っていない! 日本頑張れ! そして今、無念のホイッスルが鳴ったー! 日本、引き分けてしまいました! 日本、引き分けてしまいました! 日本の選手たちが、グラウンドに倒れる! 悪夢の、悪夢の1点が終了直前に、イラクのゴールが決まってしまいました≫
頭真っ白でもリアルな実況
試合終了後は実況人生で指折りの苦しさ、悲しさ、やるせなさに包まれながら、頭がまっ白のまま現地をリアルに伝えた。
≪カズがぼうぜんとして座っている。武田が、そして中山がフィールドの外で、トラックの上で顔を覆っている。誰もが日本の選手、動こうとしません。最後の最後で、W杯の勝利の女神は日本を見放しました!≫
頭の中で用意していたW杯初出場決定のせりふは全て吹っ飛んだ。それも天国から地獄へ。真っ逆さまに突き落とされる感覚を味わった。
「終わったら何て言おうかとか考えながらしゃべっていて。これを言おう、あれを言おうとか。それが、自分の中で準備した言葉とは真逆の結果になった。その中でしゃべらないといけない。でも頭が動かない。もう描写するしかない、倒れている選手を、ピッチの真実を」
そこからはアナウンサーの意地だった。手で顔を覆って倒れ込む中山、一歩も動けないカズ、静まりかえる日本サポーター。主将の柱谷哲二は気丈に振る舞っていたが、オフト監督に抱きとめられて涙を流した。テレビ映像でよく流される場面が、全て師岡さんのラジオ実況に収まっていた。
不条理にも似たやるせなさを覚えながら、こう締めた。
≪こんなことって本当にあるんでしょうか、日本。九分九厘、日本が勝ちを手にした瞬間、残り30秒でイラクのヘディングゴール。日本、最後の最後で9度目のチャレンジも泡と消えました!≫
今も息づく教訓
ドーハの教訓は、師岡さんにも息づいている。
「あれほど頭の中が混乱しながらしゃべる、しゃべらないといけないなんてね。一瞬で全てがらっと変わっちゃったから。だからこそ実況の難しさというか、自分の中で予想しちゃいけないということを教えられた。格好良く言うとね(笑い)」
思い出すのは一つ前の韓国戦だ。宿敵を破り、勝てばW杯初出場というところまでこぎ着けた。試合後に取材エリアへ降り、バスに乗り込む前の選手を次々とつかまえて話を聞いた。チームには、どこか安心し切った空気が流れている。ただ、主将のラモス瑠偉だけは立ち止まらなかった。「まだ決まったわけじゃないよ!」「浮かれているんじゃないよ!」
「僕らも『韓国に勝ったから行けるだろう』と思った。イラクの強さも分からなかったし。取材の時の選手もすごくテンションが高かった。『韓国に勝ったんだから』という気持ちが強かったんだろうね。そこでラモスの一喝。『確かにそうだな』と思ったけど、『でも、この勢いで行けるだろう』とも思った。ラモスの引き締めは、本当だったね」
終わるまで、何事も分からない。「頭は熱く、心は冷静に」。これが師岡さんのポリシーとなった。
悲劇と歓喜経て感慨
97年には日本がW杯初出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」を実況。「ついにやったというか、やっと決まったというか。あの時も劣勢で、最後の最後に岡野。選手たちは4年間の苦しさを乗り越え、ようやくたどり着いたなと。それが自分の中の喜びだった」
あれから25年。その後もサッカーや野球に長く携わった。日本は今やアジアの大国となり、7大会連続の出場。それも、ドーハのピッチに座り込んで動けなかった当時25歳の森保監督が世界の舞台にたどり着いた。感慨を込めて言う。
「時代は変遷し、今は海外組が当たり前。代表監督も日本人になってうれしい気持ち。ドーハの涙を知っている人がW杯の舞台に立つって、もう最高だよね」
最後に、当時を知る森保監督へエールを送ってもらった。リスナーと語らうような、いつもの熱い名調子で。
「ドーハの涙を知る男が、夢の舞台に立つ。あなたが泣いた地で、あなたが育んだ森保サッカーを見せてくれ」
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師岡 正雄(もろおか・まさお) 1960年2月15日生まれ。東京都出身。アナウンサー。中学では野球部、高校と大学ではサッカー部で活動。スポーツ好きが高じたのと、大学時代の先輩に「声がいい」と言われたのをきっかけにスポーツのアナウンサー職を志す。82年に九州朝日放送に入社。野球やサッカーに携わった。92年に退職し、Jリーグ元年の93年3月からニッポン放送へ。同年5月の開幕戦の実況という大役を務め、同年の「ドーハの悲劇」、97年の「ジョホールバルの悲劇」など日本サッカー界の節目に立ち会った。五輪中継も担当し、00年シドニー大会でマラソンの高橋尚子の金メダルを実況。野球の担当も長く、米大リーグで活躍する野茂英雄や松井秀喜の活躍も届けた。18年1月に早期退職。今もニッポン放送でプロ野球のナイター中継などを担当している。
(2022年11月22日掲載)